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小山田圭吾氏とその周りで起こったことについて

ずっと書きたいと思っていたが、あまりにも気が重くかけないことがあった。

それは小山田圭吾氏の一連の騒動である。

私は、障がいのある人と関わる仕事をしている。

だからというわけでもないが、小山田圭吾氏のしたことや、したことを面白がって雑誌のインタビューで答えたことは許せない。

小山田圭吾氏が話を盛っていたとか、編集者が悪意のある編集をしたとか小山田圭吾氏への擁護もある。

しかし成人してから、雑誌のインタビューで障がいのある人を小バカにした発言をしていることは間違いなく、小山田圭吾氏が、根本的に障がいのある人を差別しているのは自明である。

どうやって擁護したとしても、少なくとも共生社会を目標に掲げるオリンピックやパラリンピックに関わる資格はない。

私がここで考えたいのは、どうしたら小山田圭吾氏の同級生の人のような被害者を減らしていけるかである。

小山田圭吾氏を批判することは簡単ではある。

しかし批判だけでなく、障がいのあるなしに関わらず、どのような社会になっていくのが幸せなのか考えていくことが必要である。

小山田圭吾氏が障がいのある同級生をいじめていたのは、共同教育を掲げている学校においてである。

この共同教育の理念は素晴らしく障がいのあるなしに関わらず、一つの学校や教室でみんなが助け合っていことは理想的である。

しかしそのような理想的な環境でとても信じられないいじめが起きた。

子どもは未成熟であり、残虐性もあり、何より人と違うことに敏感である。障がいのある人はそのような子どもの、興味の対象になりやすい。

共同教育を実現するには、見識の高い大人が子どもたちを良い方向に導くことが必須である。

そうしないと、ただ障がいのある子どもが、障がいのない子の集団の中にいて、何も助けがないままに小山田圭吾氏のような子どもに食いものにされてしまう。

子どもは天使だから障がいのある子もない子も自然に仲良くするはず、というのは性善説に基づき過ぎている。

実際の小山田圭吾氏の学校は共同教育についてどのように実践していたかは分からないし、それを批判するつもりはない。

ただ私が言いたいのは、共同教育、統合教育、インクルージョン教育はよほど周りの大人がうまくやらないと危険だということである。

例えばであるが、小山田圭吾氏とその仲間達からひどいことをされた同級生が、もし特別支援学級や特別支援学校(当時は呼び方が違うが現在一般的に使われている名称にした)に行っていればどうなっていたか。

少なくとも口にはばかられるような虐待行為を受けることは絶対になかった。

特別支援学校では、子ども同士のトラブルはまったくゼロではないが、少なくとも小山田圭吾氏が発言しているような犯罪的な残虐行為は起こり得ない。

障がいのある子どもが特別支援学校に行くことを、分離教育といって批判されることもよくある。

実際に世界的な流れで言えば、統合教育が潮流で日本の分離教育は遅れているという意見が多い。

しかし分離教育は障がいのある子どもを守っている側面もある。

悲しい現実ではあるが、小山田圭吾氏のような悪意のある子どもは現実として少なくない人数が存在してそのような子どもは大人の目をうまく盗んで、いじめをするのである。

そして障がいのある子どもはその標的にされやすい。

だから私は統合教育や共同教育やインクルージョン教育は慎重に進められるべきだと思う。

もちろんいつの日か、障がいのあるなしだけでなくすべての差別がなくなり、どんな特徴がある人も幸せに暮らせる社会がきてほしい。

しかしまだまだ、差別的な言説がなくならず、社会的弱者にならざるを得ない人が追い詰められる世の中である。

そのような社会において私はまだ分離教育ですべきことがたくさん残っていて、安易に統合教育をしない方が良いと考えている。

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