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【第5回〜その時の私〜】令和の幕開けはトキ消費時代の幕開け

人間誰しも人からの見られ方は多様である。それと同じくらい、過去の自身の積み重ねが現在に与える影響は計り知れない。
そのような前提をもとに、過去下書きに入れていて掲載しなかった文章をあげていく。
そんなシリーズ第5回目の文章は2019年4月24日に書いた文章である。

令和時代に入るにあたって、現代における消費の動向を自身の言葉で整理しようとした文章である。
①"映え"のもつ刹那性のトキ消費
②"チル"のもつ言語化できない実感を尊ぶトキ消費
の2面性をうまく言葉に落とし込めず尻切れトンボで終わってる。
これから結論に向かうだろうというラストサビ前で終わる様子をお楽しみください。
いずれまとめられればとは思う。

過去の私が教えてくれることがあるかもしれない。

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体験(=コト)が簡単に手に入る現代消費社会において、純然たるそこで過ごす時間に焦点を当てたチルこそトキ消費への移行の宣言である。

80年代初頭、モノ消費に対して成熟した消費者に対して、次世代のニーズとしてコト消費の必要性が叫ばれた。
それ以降の30年間で景気の乱高下やテクノロジーの大革新に支えられながら、モノが復権しつつも、コト消費が成熟してきた。
ディズニーランドやUSJ、富士急ハイランドという遊園地2.0、ファストファッションの対等とラグジュアリーの復権、丸々コラボなどモノが溢れる時代だからこそ、モノの価値が見直され、体験提案体験消費が強化されてきた

モノからコトへの移行は、「インスタにあげるために買って、撮影したらその場で捨てた」現象などが認知されるようになった時点で終焉を迎えた。

モノとしての価値は使用価値などでは到底なく、交換価値ですらないのだ。交換したことを世間に表現しうるツールができたことにより、自身がモノを持つか、体験をしている場面さえおさえられればいい。その時さえ切り取れれば、それ以前もそれ以後も関係ないのだ。


"映え"とはやはり、視覚性とそれ以降自身拡張としてステータスを表現するための道具でしかないその情景を表した言葉である。
チルはその場とそこで過ごす時間の快適性を表現する言葉である。


肯定でも否定でも、そこでの外向きの極端さを表す"やばい"に対して、その場で感じる感情を表した"エモい"

誰からもわかるのが映えや、やばさであり、時間と場所など体験を共有したものしか分かり得ないチルやエモ

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