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映画「白い鳥」

 先日、比較的親しいと思っている友人と、もう一人初対面の方とお会いする機会があったのだが、突然友人が私の病気のこと直接的ではないが暴露した。その場はなんなくやり過ごしたけれど、一晩寝て猛烈に腹が立った。
 いつも「あの時!」と遅れて感情がやってくるので、毎回さらに落ち込む。もっとその場で、止めたり、怒ったりできないものだろうか。この瞬発力のなさよ。。

 映画「白い鳥」を観てきた。実はweb上で観られるようなので、ぜひ観て欲しい。
https://theatreforall.net/movie/awhitebird/

 この映画は、「目の見えない白鳥さんとアートを観にいく」の映画だ。
https://www.shueisha-int.co.jp/publish/目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

本を読んでいて、白鳥さんとの鑑賞は実際どんな感じなのだろうか、と想像していたので、そういったシーンが実際に見られて良かった。
 本よりも白鳥さんがなぜアートを観るのか、みたいなところがよりわかったような気がした。  
 (正確な言葉ではないですが)イメージ伝わりましたか?と、聞かれるのが白鳥さんは嫌だと言う。正解かどうかではなくて、美術鑑賞の場、人と共にある活きた時間(瞬間?)、観る人たちの感性と共にある事が、白鳥さんにとっての鑑賞ということなのかな、と。
 その時間を通じて、というかアートを通じて人を見ているのかもしれない。

 アートを観るときは、静かに観る、というような暗黙のルールを感じることもあるけれど、もっと自由に観てもいいのかな、とも思う。
 静かに自分の中で作品と向き合うのもよし、友達と、私にはこう観える、と話しながら観るもよし。スケッチしながら観るのも良い。
 森村泰昌さんの作品になりきる作品があるが、あれも、擬態と解体という面白い解釈で個人的にはとても好きだ。鑑賞を作品化するという面白さがあるように思う。
 アートの観かたは、もっと自由であっていい、とこの映画を観て実感した。

 映画だったか、本だったか忘れてしまったが、白鳥さんの「目が見えている人もそんなに見えてないんだな」みたいな言葉があったと記憶しているけれど、ほんと見たいものだけを見て、聞きたいことしか聞いてないんだな、と思う事はよくある。そういう事ができるからこそ、毎日暮らしていける気はするけれど。
 白鳥さんのアート鑑賞は、それを通じて、私たちも見えていないもの、見逃しているものを再確認してハッとさせられるところがあるのかもしれない。そういったことが、人々を惹きつけるのかなと。

 こう書くと、なんとなく真剣なちょっと身構えるような感じになるかもしれないけれど、この映画に出てくる実際の鑑賞シーンはもっとほのぼのしていて、気楽な空気が満ちている。「これなんだろ」「分からないよねー」って終わってもいいような空気感。その空気感は白鳥さんの魅力なのかもしれない。

 私は知らない人と一緒にワイワイ話しながら鑑賞する、というのは魅力的だけれどまだまだ難しい。いつか参加できるといいなと。
 千葉市美術館で、時々「白鳥さんとの鑑賞会」をやっているので、いつか参加してみたいなと。千葉市美術館は展覧会も面白いことをやっていて、とても気になる美術館だ。遠くてなかなか行けないけれど。
https://www.ccma-net.jp


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