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三次元的ストーリーテラーたちの集い

新国立美術館で開催されている、『話しているのは誰? -現代美術に潜む文学-』展へ行ってきた。端的に言えば、文学を視覚的に表現してみた、がコンセプトの美術展である。過去に音楽を視覚的に表現してみた展示がとても興味深かったので、行ってみてもいいかなと少し前から目をつけていたものだった。

公式HPにもある通り、この展示には所謂文学作品の展示はない。各作家の展示空間そのものが、ある種の物語性を持っているので、来場者はその世界観に足を踏み入れて、自分なりに読み解いて行かねばならないのだ。
良い絵だな、良い写真だな、では終われない、考えながら見ることで楽しい、参加型の展示だった。

芸術を見るのも、その意味や意図に想いを馳せるのも好きではあるのだが、こうしたものを見たり考えたりする際にひとつだけ忘れずにあろうと思うことがある。

”完全に理解できる”とは思わないようにすることだ。

他人の頭の中を理解できるとも思いたくないし、人の思考や価値観は伝わるようで伝わらないから表現の形になっているわけで、これはプレゼンでも演説でもないのだから、楽しめる程度に考えるのが丁度良いと思っている。わかったような気持ち、くらいで良いのだ。多分。持論である。

下手に色々と書くとネタバレになってしまうのだが、各部屋のテーマはそれぞれだ。社会的なメッセージを含むものもあれば、日常を描き起こすようなものもある。

個人的に印象深かったのは、前半の二つの部屋だった。

一番最初の部屋の物語は、ある一枚の板にスポットライトが当てられているだけのところから始まる。誰もがデザインは違えど見たことのある板なので、それが何なのかはわかるのだが、何故そんなものが一枚スポットライトを当てられているのかは皆目不明である。
一生懸命、見覚えのあるそれに書いてある記号などを読み、意味を探すが、見覚えのある板であること以外、全く、何一つわからない。

少し進むと今度は、建物の模型が置いてある。こちらは周りにヒントも落ちているし、少し考えればどこだかすぐに想像がつくだろう。
しかし依然板との関連性は不明である。しかも更に歩みを進めると、今度はスポットライトを浴びていた板が大量に散らばっている部屋が見えるのだ。首を傾げる他ない。どうしろというんだ……

その更に先にはひらけた空間があり、今度は使い慣れないが知っている道具が大量に並べられていて、ど真ん中には大きなモニターがあり、映像の中でうねうねとした謎の物体が動く中、ナレーションを聞くことになる。

一つ目の展示部屋のクライマックスがこの映像である。ナレーションが語るのは、ある有名な場所について、ある事件と、そこにあったはずの日常的な情景なのだが、ある種脈絡のないその語りが、今までの共通点のない展示物を見事に線でつないでいく。ミステリ小説の謎解きを見ているかのようで、実に爽快だ。

是非一番最初の板の記号は舐めるように見てから進んで欲しい。

二つ目の部屋は、明るくて、カフェみたいにお洒落な音楽が流れていて、綺麗な写真や映像が並べられた空間で、直前の謎めいた空間よりよほど爽やかだった。
一つおかしなところを挙げるとすれば、誰かがずっと、無意識では聞き取れるか聞き取れないかくらいの小声で何かを話している点だろう。声を聞き取る耳になるまで少し怖かった。
その声が話しているのは、古い日記をめくって目に付いた文を読んでいるみたいな、地続きの一つの話のようなそうでもないような内容だ。

しかし、よくよく耳を傾けると、飾られている写真たちとその言葉はリンクしていて、言葉と写真が互いを補うように、その空間で一つの物語を描いていた。
長く聞いていると、ずっと流れているカフェでかかっていそうな音楽が何という曲なのかを、そして写真に写る楽譜の読めない曲名を知るのである。
写真もよく見ればどの地域を写しているか何となくわかってくる写真だったりして、段々と物語が見えてくる感覚が面白い部屋だった。

展示は全部で6部屋ある。どれもじっくりと空間全体を見る事で意味や意図が浮かび上がってくるような構成になっているので、大きな展示ではないがゆっくり、しっかりと楽しめる。

11月半ばまで開催しているので、秋を感じるのに足を運んでは如何だろうか。

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