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~過去の私との会話~

大学病院から退院して2ヶ月が経過しようとしている。体調の方は良くも悪くも進展は見えない。

その間の最も大きな出来事と言えばやはり『再発』になるかと思うが、そこで立ち止まってばかりもいられない。

入院中も今も日々色々なことを考える。

最近は入院中に書いたであろう苦しみと共に殴り書きしたメモ等を見つけて、またイロイロと考えることになっている。

新たな発見や気持ちの整理に繋がるかもしれないので、しばらくはその辺りをNoteにまとめてみようと思う。

…何かしないと、人生のロスタイムを徒に過ごしているだけになってしまうから。


▼ 幸せは不確かなモノ

『幸せ』について考えることが今以上に入院中は多かった。それは当時のメモを見ていればよく分かる。

・ 生きる
・ 幸せ
・ 家族

このカテゴリのいずれかばかりを考えていた。なので、しばらくこのまとめNoteもその流れに従うことになると思う。

幸せの捉え方に正解はなく、時と場合によって大きく異なる。それは実体験上間違いない。

歩行機能を失っていた時には一歩を歩けることにこの上ない幸せを感じていたし、誤嚥性肺炎から回復して水を飲むことを許された時には、涙を流したものである。

大多数の人が感じることは決して出来ない様な『幸せ』を、私は病や入院を通じて感じていた。もちろん正直な所、死ぬまで感じなくても良かったと言えばそれまでであるが。

時と場合で相対的に変化する『幸せ』であるが、入院当時の私から見れば今の私は十二分に幸せなんだと思う。

食べ物の摂取制限も減り、家族と過ごす時間があり、何とか自分の足で歩くことが出来る。

闘病中の方のツイートを見ていると「一体他に何を望もうか」という水準だとも思う。

一方で、自宅に帰って来て過去の幸せの残骸を見ながら思うこともあった。

・ 前職の退職祝いに貰った片方20キロのダンベル
・ 今より20キロ以上体重があったころの体格に合わせたオーダースーツ
・ カビの生えた本革のビジネス靴

そんなところを眺めながら過去の自分と相対的に今の自分を見ると、少し切ない気持ちになる。

一生懸命鍛えていた身体は今や見る影もないし、体格も違うのでオーダースーツに袖を通すこともないだろう。そのスーツに合う様にと大事にしてきた過去の相棒の靴も、しばらく世話が出来ずに捨てるしかない状態だ(そこそこ高かったのに)。

過去にはそれらがあって当たり前だったし、それ以上のことを求めていた自分が間違いなくいた。

スーツや靴はより洗練されたものを欲していただろうし、筋トレのメニューも日々負荷を増やしていただろう。

誰しも普通に生きていれば、そのような欲求や感情は当たり前にあると思う。煩悩とも呼べるし、向上心とも捉えることも出来る。

人にはそういった感情があるからこそ努力が出来るし、高みを目指すことが出来るのだから悪いこととは別に思っていない。

ただ、時と場合に寄ってその水準は大きく乱高下するという事実がある。

だから私が今追い求めている幸せは、別の状況からみると大きな高望みにも見える実に不思議なモノである。

▼ 人生は出来かけのジグソーパズル

繰り返しになるが、今の自分は幸せであると思っている。たとえそれががんの再発をした状況だとしても…である。

強がりとも少し違う。

「がんになっていなければ」
「再発していなければ」
「体中に副作用が出ていなければ」

そう考えることは当然ある。そんなのは当たり前として。

ただ、自分にコントロール出来ない事柄を嘆いても何も始められない。

今の私は集中治療室で死と隣り合わせとなり、家族に生存を諦めさせてしまう覚悟をさせたときの自分から見れば、どれほど幸せなのだろうか。

つくづくそう思う。

そう考えると嘆かわしいが『人は相対的に幸せを感じる、いや相対的でないと幸せを感じられない生き物』なのだろうと思う。

・ 他の罹患者と比べて…
・ 過去の自分と比べて…
・ 現状の環境と比べて…

何かと比べて自分の立ち位置を把握することが、ごくごくスタンダードなのだと思う。そうしないと自分の置かれている状況を捉えることが出来ない様になっているのだろう。

私はその状況を『もうすぐ出来上がりそうなジグソーパズル』と捉えている。100ピース程度のパズルのうち、あと数ピースが埋まってないイメージが近しいだろうか。

埋まっているパズルのピース部分を満たされた欲求であるとすると、埋まっていない部分は不満に感じる部分となる。

それが良いとか悪いとか言っているのではない。「人は埋まっているピースを当然のこと考え過ぎ」ということをここでは伝えたい。

・ 薬を飲まずに眠れる
・ 自分の足で歩ける
・ 自分のタイミングで水を飲める

パズルに例えるなら、一般の人からすればこれは非常に単純なピースの様なもので「埋まって当たり前」のものである。

ただ、そのピースが埋まっていない人からすると「普段どれだけ当たり前の幸せに気づけていないのか」と考えさせられる。

どうしてもパズルの埋まっている部分は当たり前に見える。あと数ピース埋まれば完成する、幸せになれると考えてしまう部分に気が向きがちになる。

だが、ふと思う。

90数ピースの満たされている幸せではなく、数ピースの満たされていない不幸に人は目を向けがちであると。

幸せは自分の人生の眺め方によって決まる。

足りていないピースを気にして居続ければ、永遠に、そして簡単に人は不幸になれる。

私のジグソーパズルは全くの不完全である。足りないピースがあることも理解している。そして、かつて埋まっていたピースを失ったことも知っている。

それでも今、幸せである。

▼ 不幸を感じられなければ幸せを感じられない

幸せについて考えることは、自分自身の慰めのため…という視点も私は否定したくない。実際にそういう側面も大いにあると思っているからだ。

自分自身に折り合いをつけるために、自分自身に言い聞かせるためにこんな文章作っている…。そう思うこともある。

そして考えがまとまらずに、絶望して考えることを辞めてしまった足跡が自分の過去の書き残しにはいくつも存在する。入院中の『私』を俯瞰して眺めると、それほど追い詰められていたのだと思う。

一方でその苦しんだ「過去」の自分がいたからこそ、今の自分がいるとも考えられる。

全ては考え方次第なのかもしれない。

大学病院を退院して地元に戻り、直ぐに再発の話題となった時に動揺を抑えられたことを『強さ』と名付けるなら「少なくとも自分は様々な病気の経験から強くなっているのではないだろうか」そんなことを考えたりもする。

何もなく、順風満帆な人生を人は望む。
当然自分も望む。いや、望んできた。

しかしながら自分の今の状況は、過去の私の想定の中には入っている由もなかった。それを少しづつ受け入れることが出来る様になっているのは、時間と考え方の変化がベースとなっている。

何か物事を考える時に正反対のことも考えるのは、私の性格というか思考として大いにある。

・『生』と『死』
・『幸せ』と『不幸』
・『常識』と『非常識』

こんな具合に片方だけでなく、反対もひっくるめて考える。双方をそれなりに理解しないと、深い考察には繋がらない…と思っているからだ。

幸せの反対である『不幸』は一般的には「無い方が良い」ものと理解されていると思う。私もそう思ってきたし、今でもそう思っている部分が少なからずある。

一方でその不幸に存在意義があるとしたら…と入院中に考えていた様だ。

何度も何度も。そしてかなり深く。

「不幸を消し去りたい」
「不幸から抜け出したい」
「幸せになりたい」

そう願えば願うほど、苦しみが増している自分がいる。いや、正確に言うと「いたかもしれない」になるのであるが。

人間の記憶は都合がよく出来ているのか、苦しい記憶は薄れる様になっているらしい。ほとんど記憶にない苦しみのメモ書きもいくつも存在していた。

さて、不幸を「消したい」から「どこかで受け入れないといけない」と考え方を変えてからの記憶と資料の結論は『不幸は幸せのためには必要』となっていた。

今の私にもこれは割とすんなり受け入れられる結論である。人間は不幸を感じるから、相対的に幸せを感じられるのである。

前述した通り、人は相対的に幸せを感じる。他人や過去と比較することで今の立ち位置を探る。

今の自分が幸せか否かの判断については、当然ながら他人や過去の不幸が必要になってくる。裏を返すと他人の幸せには自分の不幸が一役買っていることにもなる。

あまり考えたくはないが、私の再発も誰かの幸せを担っているという意味だ。…ひどく不思議な考えかもしれないが、理屈的にはそうなってしまう。

消せないもの、受け入れたくないものをどうにかしようとすると人は簡単に苦しむことが出来る。

そこに折り合いをつけて、自分なりに昇華させようともがき苦しんだ過去の自分は『幸せに不幸は必要なモノ』と位置付けていた。

不幸があるから、他人がいるから、過去があるから自分は今の自分の存在を確認できる。自分が今幸せかどうかを確認することが出来る。

この世に『幸せ』という考えが生まれたと同時に『不幸』が生まれているのだから、表と裏で繋がっているのだから、その片方だけを消そうとすることは出来ないということに気づかなければいけない。

『不幸』は『幸せ』のためには必要不可欠なのである。

▼ この世は願いが叶う世界なのかもしれない

不幸についてだいぶ折り合いの付いた頃の自分のメモ書きは、だいぶ落ち着く様になってきていた。

感情に支配された殴り書きも参考にはなるが、俯瞰して分析している文章も未来の糧となる。

今の自分が感情的なのか冷静なのかはあまりよく分からないが、今回の文章を仕上げるにあたってはどちらかというと冷静の側であったと思っている。

不幸を認めると、存在を否定できない自分がいる。「~したい」と願う自分である。

・ 総理大臣は総理大臣に「なりたい」とは思わない。今、総理大臣であるからだ。
・ 病気である人は病気に「なりたい」とは思わない。今、病気であるからだ。
・ そして現在幸せである人は幸せに「なりたい」とは思わない。今、幸せであるからだ。

そう考えてみると「幸せになりたい」と願うことは、現在が「幸せではない」と自分で認めていることになる。

自分が幸せでないと自分に言い聞かせ続けていると、自然と自分は幸せから遠ざかっていく。

「~したい」「なりたい」と願えば願うほど、そうではない現実が堅固なモノになっていく。

「なりたい」=「なっていない」という現実が叶う様になっている。

だからこそ「もう自分は十分だ」と思うことが大切と過去の私は書き残していた。

誰しも出来かけのジグソーパズルを持っている。そのパズルの不足分を見るか、充足分を見るかで感情は変わる。

不足の隙間は人それぞれであるし、そこをどう見るかも自由である。だが「足りない」と考え続けていれば、永遠に幸せを掴むことは恐らくできないであろう。

不足している隙間を埋めることを普通の人は『向上心』とラベリングしている様だが、私の様な病人は前向きにとらえることが出来ない。だからこんなにも苦しむのだろうと今私は考えている。

自分自身で自分に満足を認め、折り合いをつけることが今求められている。
長いトンネルを経て、今はこの様な考え方に落ち着いている。

▼ さいごに

自分の書き残しを通じて、過去の自分と対話をしていると少し心が落ち着いてくる。人との会話は心を整理するのにやはり有益な様である。

孤独も対話もどちらも大切で、バランスを保つ必要があると改めて考えさせられる。書き殴りの財産はもう少し有るので、もうしばらくは過去の自分との対話を続けていこうと思う。

最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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