選択
#いだてん最終回の夜に という# なら共感できる。大人になれば、#8月31日の夜 が人の数だけ増えるだけだ。
と、無責任なポジティブピープルを牽制するnoteを、人身事故で止まった電車の中で書いていて、全部消した。
事故の全容が分かるにつれて、私は、その子に向けて書くことにした。
私が初めて、"死にたい"と思ったのは小学2年生。
人との距離がつかめない私は、クラスで孤立していたし、いじめに似たものも受けた。欠陥家庭とまではいかないが、明日を楽しみにするほどの家ではなかった。
学生時代の居場所は、二者択一だ。
家にも学校にも
居場所がなければ、どこにも居場所は、なくなる。
庭の赤い実を食べれば死ねるかな、と考えていた。あの実を食べただけでは死ねないとわかっていたから、生きるしかなかった。痛いことは嫌だった。
不幸自慢ほど浅はかなものはないので、割愛するけれど、視野も世界も広がったはずなのに、もう死ぬしかない…か、生きててよかったー!の繰り返しだった。
明けない夜はない。でも、夜は必ずやってくる。
遮光カーテンを閉めて眠ってしまえば、昼でも夜だと思い込める。
人間は、思い込みには勝てない。大脳の判断は正誤に関わらず、絶対だ。
バンジージャンプを例にあげると、バンジージャンプができるのは、逃げようとする本能を大脳が無理矢理リラックスさせて、飛び降りるからだ。
最初の一歩を右足から出すか、左足から出すか、自分で決められるうちに、他にも出来ることがある。
でも、君の大脳が決めたことだから。多くの情報から、君は、それを選択した。
殺傷率が高くても、陰湿ないじめを助長しても、利益が優先されたもので世の中は溢れている。
君の場合は、大脳と本能の意見が一致したんだ。 間違ってはいない。
ただ、間違いだらけの世の中で、自分の選択だけが正しいとは限らない。とだけは、伝えたかった。
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