母と私と

 築四十年の市営団地。薄暗いエレベーターホールでエレベーターを待っていると、幼いころの思い出が蘇る。母の乗っているエレベーターを、息を切らしながら待つ私である。

 この団地ができたのは、私が小学生になった年だ。この辺りで初めてのエレベーター付き集合住宅だった。完成と同時に私達家族も引っ越してきたので、ここは私の人生の拠点とも言える。

 幼かった私にとってエレベーターはとても不思議な乗り物で、毎日使うたびに興奮した。乗ると必ず、行き先ボタンのパネルの前に陣取って独り占めし、他の誰かが触ろうものなら我慢できずに泣きわめいて、周りを困らせた。しかし、毎日当たり前のように使っていると、徐々に新鮮味が失われ、次第に興味も薄れていった。

 次に私が夢中になったのは、エレベーターという最先端の機械に勝利することだった。これは毎週末、母と行くスーパーへの買い物の最後に、決まって開催されるレースだった。母はエレベーター、私は階段で、同時に五階を目指す。団地の階段は屋外に面していた。強い西日を浴びながら、母と私だけの秘密のレースに参加した。私は、喜びからか幸せからか、顔の緩みが抑えられず、ニヤケ顔で、でも必死に駆け上がった。もちろん開催当初からすぐに勝てたわけではない。階段を上がりながらもエレベーターの扉が開く音は、しっかりと耳に届いた。全く惜しくもない勝負でも、母はいつも、

「ほんの少しの差だったね。お母さんも今、着いたところだよ」

と、接戦に仕立ててくれた。その優しさが嬉しくもあり、悔しくもあった。当然のことながら、初めて勝った時の喜びは、今でも覚えている。五階に到着したエレベーターの扉が開くより一瞬早く、私が扉の前に着いたのだ。扉の真正面に仁王立ちして待ったほんの数秒の間に、疲れた、嬉しい、ほめてほしい、驚かせたい、誇らしい……様々な感情が私の中を駆け抜けた。扉が開いた瞬間、私の姿を確認した母は目を丸くして驚き、

「速かったね。すごいね」

と頭を撫でてくれた。その母の掌は、とても温かく優しかった。

 小学校も高学年になると、毎回勝てるようになってしまい、そうすると本気を出すのが急にバカらしく思えた。ちょうど思春期にさしかかったころだった。このあたりを境に、私が階段を使う意味合いが変化した。エレベーターという狭い閉鎖的空間に、母親と二人きりで乗ることに対して、恥ずかしいというか気まずいというか、そんな感情を抱くようになったのだ。しかし、こんな気持ちを母に伝えれば、母が寂しい気持ちになるとわかっていた。だから、トレーニングと称して、買い物袋を両手に持ち、一人ゆっくり階段で上がった。このころには母も、私を待つことなく先に家の中へ入るようになっていた。母との距離が大きく変化した時期だった。

 あれから約三十年。ずっと親元で、この団地を拠点にしている私が、自ら階段を選んで五階へ上がることはなくなった。時が流れ、時代も私自身も変わった。そして、この団地にも高齢化の波が押し寄せた。団地内の独居老人が増え、空き部屋も目立つようになった。私の頭を優しく撫でてくれた母の手も、細く小さく皺だらけになり、「守る、守られる」という関係が、気付けば逆転していた。

 ある雨の日、母はぬかるみに足を取られて転び、怪我を負った。そして検査の結果、しばらくの間は車椅子での生活を余儀なくされた。母は怪我をするまでは、体を動かすのが好きで、健康的な毎日を送っていた。しかし、一定期間自らの足を使わずに生活した代償は大きかった。リハビリ初日、母は自らの足で立つことすらおぼつかなかった。そこから努力を重ねてリハビリを続け、ようやく杖を片手にゆっくりと歩けるまでに回復した。そのタイミングで、退院の許可も下りた。

 病院が自宅前まで母を送り届けてくれるというので、私は約束の時間に団地の下で車を待った。車が到着すると、母は満面の笑みを浮かべていた。久しぶりの我が家が、よほど嬉しいのであろう。母の荷物を受け取り、車を見送って、母の歩くスピードに合わせて二人でエレベーターホールへ向かった。しかし、母はエレベーターの前を通り過ぎ、階段の方へと進んでいった。

「リハビリしなきゃ。今日から階段」

 いたずらっぽく微笑む母の手を握り、私もゆっくり歩を進めた。何十年ぶりに握った母の手は、細く小さいながらも力強さが感じられた。この団地が建てられてから四十年。この日から、階段は二人で一緒に一段ずつ踏みしめるものへと姿を変えた。

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