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自己肯定感

昔親友に、自己肯定感という言葉を教えてもらった。教えてもらったというのは大袈裟で、話の流れで彼女がふとその単語を使ったのを聞いて「へぇ、そういう言葉があるんだ。」と思った程度かもしれない。
なんだかとても気になる言葉だった。「肯定」という言葉が好きなのだ。とにかく私は、肯定されるのは嬉しいことだなぁ。とふわふわと感じていた。
今の生活で自己肯定感を爆上げしてくれる存在の自慢をしたかったので、今日も自分語りnoteを書きます。


私の自己肯定感


私は自己肯定感が高い。原因は分からないが「自分は何したってダメだ…」とか「どうせ私なんか…」と考えたことがあまりない。少し調べると、育った環境がどうの…と出てくるがそれは私には分からない。

幼い頃から母には「人を小馬鹿にしている」姉からは「自己顕示欲がめちゃくちゃ強くて自信家」と言われていた。これも紛れもなく真実。
これを言われた時、怒るでも喜ぶでもなく「私のことはそういう言葉で言い表せるんだなあ」と妙に納得したのを覚えている。小馬鹿にしているように見せてしまうのは早急に反省して直すべきだったが。笑

幼い頃から自信満々だった。本当に、これはなぜなんだろう。鼻につく人格だったろうなあと反省するが、ある種の虚栄を乗り越えた末に手に入れたもののようにも思う。…知らんけど。
自分が一番正しい!というものではなく、なんでも一定レベルでこなせるというタイプのもの。秀でた才能があるわけではない、フラットな能力だと感じていた。でもそれは、どこも凹んでいないという自信につながっていた。

自信満々の自分に価値があると信じていたので、特に恋愛においてはしょげている姿を見せることができなかった。その概念を変えてくれた人が夫である。自分でも受け入れていない自信がない部分をさらけ出せる人がいて、さらにそれを受け止めてくれる人がいると知り、「この人と人生を共にしよう」と決意した。彼が原因で雨が降ったり曇ったりすることももちろんあるが、他人が原因になることもある。だから、ちゃんと晴れにもしてくれる彼をパートナーに選んだ。


(余談だが、負け戦を避けて通る生き方が、自信を保つ秘訣だったように思う。私には出来ないことが多い。苦手にぶち当たった時は「私はこれが苦手なんだな。」と理解し“諦め”という名の受け入れ態勢を取る。出来るようになった時にはもう、それが苦手だったことなんて忘れているのだ。なので私はこれまで自分の成長を感じたことがない変な人間なのだが、人間の忘却能力は便利だ。

勝てると自信が持てるまでは進めず、想像できる不安はすべて取り除くまで準備してからじゃないとスタートできないたちで、スタートしてからはちょちょいのちょい、という生き方をしてきた。
リレーで言うと、スターティングブロックの素材やメーカー、位置と自分の姿勢まですべて完璧に決めてからじゃないと走り出せない。走りは普通、早くもなければ遅くもない、予選は突破できるくらい。それを器用と表現する人もいれば慎重派と表現する人もいる。見えているところ、見せているところ、準備期間の長さ短さは課題によるしね。
「なんとかなる」「やってみないと分からない」「そうなったときに考えればいい」「失敗を繰り返して成功すればいい」が生まれつき備わっていないおかげで不安を見つけて取り除く工程は得意になった。語れば語るほど研究に向いていないことがわかる。トライ&エラーが無理なんだよな。失敗したくないの絶対。)


damedame-na-hi

何をやってもうまくいかない日がある。

今までしてきた自分の選択、今の状況、今日してしまった自分のこと、全てが間違いに感じてしまう。

こういう日を私は「damedame-na-hi」と呼ぶ。
ローマ字表記に理由はない。Twitterかなんかに書こうとしたときにたまたまそう書いて、以来気に入って使っている。どこか他人事のような、イベントやアイコンのように表現したかったんだと思う。こんな自分がダメ~とは思わず、今日がダメ!とmeからdayに責任転嫁だ。

そうはいってもこんな日は落ち込んでしまう。自己肯定感がガタガタと崩れ落ち、めちゃくちゃにジメジメする。表現に救われるときもあれば、表現だけではどうにもならない時ってあるね。

やっとサビだ。

夫に助けを求めよう。


私「あのね、今日全然ダメな日なの…」
キノコを生やした頭だけを布団から出して打ち明ける。なんで?いつも自信満々じゃん。とか言われるんだろうか。ジメジメ…

夫「そうなの?」
ベッド脇で視線だけをこちらに送る。冷たい一言に聞こえるが、人からはそう見えないんだ。と少しほっとする。

私「自己肯定感がめちゃくちゃ低くてしんどいの。」
ついに言った!なんて返してくれるのだろうか?

夫「ジココーテーカン?」
……どっかーん!なんと夫の中でうまく漢字変換ができていない!もしかしたら[Z coco taken]のような英単語だと思っているのかもしれない。たまげた(勝手に)。

私「自分のことを肯定的にとらえられなくてつらいってこと」
しんどいんだから言わせんな!という言葉が頭を駆け抜けていったが速すぎて捕まえられなかったので口に出さずに済んだ。

夫「なんかあったの?」
とてもシンプルだ。これ以上もこれ以下もないくらいまともな質問だった。

私「なんかあったってわけじゃないんだけど…○○を選んだことが間違ってたんじゃないかな。××もできないし。△△もだめだし…あと、今日はレトルトカレーに決まった…」
頬をかたつむりが登り、頭にカエルがピョンと乗る。シトシト…

夫「また嫌な夢でも見たの?○○は間違いじゃないよ、そうじゃなかったら今ごろ~。××も仕方ないよ、君のせいじゃない。あとは?もうひとつあったよね、なんだっけ?」
割とドライな夫なのでこんな時も頭をなでたり抱きしめたりはしてくれないが(私から手の下に頭を潜り込ませるか、腕を組んでいるところに頭をねじ込んでいかないと実現しないことが多い。)to doリストにチェックを入れていくかのように簡潔に、的確にひとつずつ肯定していった。私の自己肯定感がめきめきと積み上げられ立ち直る音が聞こえる。

私「△△」

夫「うん、△△ね。いずれできるよ大丈夫。それはなんとかなるよ。」
最後の項目にも、いとも簡単にチェックを入れやっとベッドに腰かけた。
私にとって、この“なんとかなる”がとても大切だった。

他人が言う「なんとかなる」を信じていない。本当かよ!ちゃんと真剣に考えろよ!と思うのだが、まあ大抵が悩んでいたことも忘れて本当になんとかなっている。それでも、は?なにかあったらてめえのせいにするからな?という強気で、納得いっていない状態のブロックに足を乗せクラウチングスタート。そしてちゃんとできて、他人がくれた「なんとかなる」は忘れて自分が凹んでいない自信をさらに強固なものにする。なーんだ、やっぱり私できるじゃん。もう準備できてるよ、と背中を押してもらったにも関わらず、便利な機能だ。


また脱線してしまったが、とにかく根拠があろうとなかろうと、絶対の信頼を置いている夫が私だけでは導き出すことができない「なんとかなる」をポンッと出してくれるから非常に救われている。本気で悩んでいるときには根拠がない「なんとかなる」に「んなわけないだろおおおおう!」となることもたまーにあるけど。笑

私「本当に?大丈夫?私頑張れてるかな?」
もういつもの自分に戻りかけている。

夫「ウン、ガンバッテルヨ。」
とりあえず感情は読めないが、このオウム返しによって私はカラッと晴れていた。


元気を取り戻した私はリビングに向かい意気揚々とお気に入りのレトルトカレーを温め始める。キノコは一緒に煮詰めて食べてしまおう。かたつむりは部屋に飾ってあるアジサイに乗せよう、カエルはベランダに出してあげよう。
ついでに夫はいつもと違うナンのチョイスを褒めてくれた。温め方が2通りあるらしい。オーブンよりレンジのほうが美味しそうだなと思ったが、両方やってみたら?という提案に乗り2種類を食べ比べることになった。5枚のうち、3枚をレンジ、2枚をオーブンで温める。ワイワイと一緒に準備をするのがとても楽しく、さっきまでジメジメだったのにサラダまで作った。


今日も二人で食べる夕ご飯が美味しい。
ほらね、ナンの温め方は私がおすすめしたほうが美味しかったでしょ?
ごちそうさま。明日も晴れるよ。

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