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幸田露伴の随筆「潮待ち草36・37」

三十六 雑草
 雑草と云うものはおもしろい。百坪の庭には百坪の雑草が生え、千坪の庭には千坪の雑草が生える。世がもし穀物だけで、雑草と云うものが無いのであれば、富貴な者は永久に誇り、貧窮の者は食を失う。雑草と云うものが生えるために、庭園の驕りにも限界が有るのである。そうでなければ百万坪二百万坪の庭園を造って、無駄に自分の驕りのために国土を塞ぐ者が一代に三人四人は必ずあるであろう。雑草は人間の驕りに課す税ではないかと思うとおもしろい。
 また雑草と云うものは恐ろしい。これを踏みにじり、これを刈り薙ぎり、これを抜き棄て、これを焼き払っても、終(つい)に滅び尽きたと云う例を聞かない。必ず毎年の春夏を我が世顔に生い茂って、あわよくば人が思いを寄せる花園の花を逐(お)い退(の)け、人々が命と頼む稲や麦をも虐(しいた)げて、自分だけが心のままに栄え蔓延(はびこ)ろうとする。それなので、少しでも花園や田畑の手入れを怠れば、たちまちその罰を受けて花は色無く、穀物は実らないありさまとなり、彼の「道高きこと一尺、魔の高きこと一丈」と云う諺を思い出すばかりとなろう。世にモシ雑草と云うものが無ければ、よく励む者も怠る者も、一度種を播いて苗を植えれた以上は皆同じ報(むくい)を得られるハズだが、雑草があるために励む者は佳報を得、怠る者は悪果を得る。雑草を人間の怠惰を戒める大自然のムチだと思うと恐ろしい。

注解
・道高きこと一尺、魔の高きこと一丈:仏道を一尺極めようとする時には一丈の魔が存在する。と修行者を戒めた仏教用語。 ここでは良い作物を得ようとすれば、それ相応に障害も多いということ。

三十七 田の畔
 天は善人に味方すると思うのは善人の自惚れである、日光は稲だけを育ててはいない、雑草も育てているのである。天は善人に味方しないと思うのは善人のひがみである、天は良い種を播いた者には、良い種を播いただけの収穫を与えるのである。天は悪人を罰しないと思うのは悪人の自惚れである、稲はおのずから人に愛重され、雑草はおのずから人に抜き取られる運命なのである。天は悪人を憐れまないと思うのは悪人のひがみである、天は一度倒れた稲にも草にも再び自分で立てる力を与えているのである。見よ、彼処(あそこ)では友と闘って一度は傷ついた鶏がすでに楽し気に世を送っているではないか、天は鶏にさえ自ら癒す力を与えているのである。
 人間の強くないことを知って人間の雑草でないことを知り、人間の弱いことを知って人間の稲であることを知る。世に悪人と云う人はいない、人はみな稲である、誰が雑草であろう。たまたま悪を為した者は、誤って倒れた稲である、倒れた稲を見ると自ら立とうとする情が見え、悪行を為した者を見ると自ら改めようとする意(こころ)が見えるものである。善を為した者は実に愛すべきであるが、悪を為した者も実に憐れむべきであるといえる。立っている稲も倒れている稲も共に稲である、雑草ではない。人は皆稲である、誰が雑草であろう。世に悪人と云うのは無い、世にモシ悪人と云うものが居るとすれば、それは必ず世に悪人と云う者が居ると信じている人であろう。


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