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幸田露伴の「二宮尊徳⑧(その後と露伴談話)」

 先生はその後天保十四年になって奥州(東北)の小名浜や野州(栃木県)の真岡(もうか)や東郷(とうごう)の三ケ所の代官の属吏(ぞくり・下役)を命じられたが、真岡の代官は甚だ愚かで先生の仕法を用いないだけで無く、先生の仕事を妨害しようと官舎さえ与えず独裁を振るったが、先生は之と争わないで神宮寺と云う数年無住であった廃寺に入り、風雨も凌げないほどのところに平然とされていた。であるのに、嘗て先生の恩を蒙った下館藩の衣笠某は、先生を訪れた時にこの有り様を見て、余りの事に腹を立て代官に向って、「賢者に対して此のようで可(よ)いと思うのか」と散々に云えば、代官は腹の中は怒りで一杯だが衣笠の前では曖昧に答えて置いて、衣笠が帰ると直ぐさま先生を呼び出して、「我が処置は我が思うところが有ってのことである。お前を廃寺に住まわせて置いて、何で局外からクドクド云われる理由がある、衣笠は陪臣(ばいしん・他藩の家来)の身で無礼にも我が処置が誤っていると云って帰ったが、お前から彼にこのようなこと云わないよう注意しろ」と怒って云う。先生はハイハイと逆らうこと無く引き下がったが、衣笠はこの事を聞いて大いに怒り、「愚人(ぐじん・バカ者)に問答は無駄である。彼のような小人とは二度と会いたくない」と直ちに下館へ帰ったが、他人でさえこのように口惜しく思うほどなのに、先生は少しも恨んだり怒られたりする様子も無く悠然として居られる。であるのに、或る人がまたこの事を聞いて歯を食いしばって大いに怒り、代官に面会を求め道理を尽して抗議し代官が返答に困るまで攻め立てたが、先生は此の事を聞いて、「そのような必要は無いのだが」と云われて嘆かれた先生の心の中こそ広い。
 こうして、先生は日光神田(にっこうしんでん)の開墾の命を受けて苦労して仕事をされたが、中途で果敢なくも亡くなられた。
 先生は博学多才(物知りで才能豊か)の人では無い、博学多才の人よりも尚も大いに世の為に成られた人と云える。先生はまた悟道得真(ごどうとくしん・仏道などで悟りを得た人)の人では無い、悟道得真の人よりも尚も高く世に秀(すぐ)れた人と云える。その初めは貧乏の中で身を錬り、寒苦の中で心を鍛え、常に実際から学問を離さず、遂に道に明らかで行いに敏(さと)い君子に成られた。聞く・思う・修めるは学を成し徳に入る道であるが、聞いても思わないため凡人になり、思っても修めないので君子に成れない。しかし先生は聞・思・修の三ツを能くなされたので、聞くことが少なくても思うことが多く、思うことが少なくても修めることが多く、修めることが多いので得ることも極めて多く、遂に大勢の人を動かす人になられた。その晩年は道を楽しんで富貴利達(ふうきりたつ・金や出世)を求めず、天を敬(うやま)って困苦や屈辱を厭わず、悠々として王侯も奪えない悪意も邪魔できない愉快を持たれ、一点の苦も無い多くの楽しみを持たれて世を去られた。ソレ念(ねん)と行(ぎょう)と得(とく)は上昇と下降とによって生まれる法である。卑しい念(おもい)を発するから小人になり、誤った行いをするから好人になれない。しかし先生は大きく高い念を懐き、清く堅い行いを持たれた為に、大きく高く清く堅い果実が得られたのである。先生の伝記を読む者はその事跡(行跡)を記憶するよりも、その事跡の生じた元(もと)を能く思い、その成功を羨むよりその成功のよって来たところの源(みなもと)を思い、そして先生の思われたところを思うことができて、先生の発心(ほっしん・思い立ち)されたところを強く思うことが出来て、初めて能く先生の伝記を読んだと云える。これを伝記の終りの言葉とする。
(明治二十四年十月)

報徳記及び尊徳翁について(談話)

 報徳教ですか。私などは方面が違いますので・・・。しかし若い時に報徳記を読んで非常に感動したものですから、これに関する書物は大抵読みましたが、しかし弱い碁打ちが強い碁打ちを相手にして批評しても仕方ない話ですから、評論などの烏滸(おこ)がましいことはやめまして、ただ事実談やら感じた話を申しましょう。
 そうです、私が初めて報徳記を読みましたのは二十才位の時でした。年も若く心持ちも錬れていないで、ただいろいろの場合に遭遇してウロウロしていた頃の事です。その頃この報徳記を読みまして、大いに愉快を覚え、自分の体に一ツの強い力ある考えが湧くような気が致しました。もちろん前々から聖賢の教えや修身の書などを読んでいない事もありませんでしたが、しかし報徳記に書かれた事実が非常に目前の事で、しかも全て事実でもって説明してある。・・・言葉でもって書かれた書物は多いが、この書のように事実をもって教えているのは大変稀です。しかもその事が古代史のように、耳や眼や心などから遠い朧気(おぼろげ)なものでなく、自分自身の事か、それでなければ親しい友人の事のように、目の前に見え、耳の側で囁かれるのですから、深く身に沁み入(い)ったのであります。
 その受けた深い感じの第一は、行動は堅実にしなければならないと云うのでした。人生は堅い確実なやり方、誠心誠意、心一杯に張りつめた気分でもって遠い道を行かなければならないと、しみじみ感じました。次に感じたのは、過去の事についてその間違いである事を悟った時には、未練なく思い切って改めなくてはならないと云う事でした。断乎として改める勇気・・・勇気中の最も勇なるもの・・・之が無くてはならないと感じたのであります。人間は随分と失策をするものですが、翁の云われるように芋を蓄えるに少しでも腐れがあったら、思い切ってその腐れを切り捨てなければならない。大決心をして奮起していわゆる「懺悔の勇気」をもって思い切り、そして未来に対しては確実で堅固な覚悟で行動をしなければならないと、大いに感じて読み終えた時には嘗て覚えない程の好い気持ちがしました。大いに感じて報徳記八巻を再三再四繰り返し読みましたが、後、本を措いて考えました。ただこの書の中に書かれた事実を覚えても前後を考えても何の役にも立たない。私は農業を志しているのではない。この書を手から離して胸に入れ、その形を学ばずにその精神を学ばなければならない、と若い考えだけに至ってつまらない平凡なことですが、当時は鋭く強く深く感じたのであります。
それからは事につけ折に触れて、この書を手にし胸に抱いて忘れる暇もありませんでした。ただ自分だけでなく、その後、自分のような考えに悩む人を見受けるにつけ、親疎の別無くこの書を出して精読を勧めたことは再三では止まりませんでした。ところが此処に不思議な事があります。と申しますのは、一体に貸した本は中々返って来ないものであります。十が九までは催促しないと戻らない。元来が書物と云うものは、中身は濃いが価は安いので、そこで打(う)っ棄(ちゃ)るかして、催促しても返って来ないものが随分あります。ところが面白いことに此の報徳記だけは何時貸してもキット返って来る。これは余り他の書物には無いことです。大方、報徳記の中に含まれている烈々とした精神が、誰にも読んで投げ遣りにするには忍びないような感じを持たせるものかと思います。
 それからこれは先日、或る会からの帰り道に私の仕事の知恵から思いついた考えですが、私の仕事の方と申しますと御存知の通り小説で御座います。小説と申しますと人情の機微を監察し、さまざまな人の行いが現れる道筋と理由を考えて、それからそれへと書くのですが、この小説家の眼から二宮金次郎と云う者を小説に書くとすると、どうも事実上から発展した或る日の尊徳翁を描くことは一寸出来ないのであります。なぜなら、あの貧苦の中に育ち、あの残酷な伯父萬兵衛に養われた金次郎は、その系統上の血の中に異常に立派なものが流れているか、力のある或る保護者が居て愛の力でもって、どうか善い方へと熱心に彼を導くとかの事実がなければ、自然派や写実派の方から云うと金次郎は、どうしても、あのような後年の尊徳翁に成りそうに無いのであります。どうしてもネジケ切った悪少年になり、悪人となり、萬兵衛の家に火でも付けて、燃え上がる火炎を眺めて手を叩いてケラケラと哄笑する場面を出さないと、どうも一篇の小説にならないようで御座います。一体に写実と云い自然と云うものは妙なもので、悪くすると人間の卑しい小さな狭い考えで、この測ることの出来ない世間の事を小さく狭く書こうとする傾向にある。殊に暗黒面にだけ目を付ける人たちは、人間は皆黒い煙ばかり吐いている者のように観察するのもあるようですが、そう黒煙りばかり吐いている人だけでは大変です。中には暖かい芳(かんば)しい気を放つ人もあります。人生はそう狭くはありません。尊徳翁のような人も出てくることもあるのです。
 想うに二宮翁の幼時については、あまり書いたものには伝わっておりませんが、これを小説家の眼から見ますと、どうしても何か非常に誠を捧げて崇拝し、信仰し、目標としていた或るものが在ったように思います。先日も五十年祭の席上で、古い古い「大学」を見た時に深く感じたのです。あの「大学」を絶えず読んでいた幼い金次郎の胸の内には、自分の境遇が苦しいにつけ、古聖人に対して言い知れない懐かしい、慕わしい憧憬の念(おもい)が燃えて、呪文でも誦するように、強い信仰の一念でこの教えに対していたのではあるまいかと思ったのです。また観音経を読んだことでも、どうも人間以上の或る者を夢のように幼い心の中に認めて、それによりすがって居たのではあるまいかと思ったのです。一体に善良な子供と云うものは不思議に人間以上のものを信頼し敬慕するものですが、周囲が辛かったために金次郎のそれは一層鋭かったように思うのであります。
(明治三十八年十二月)


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