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幸田露伴の随筆「潮待ち草49・50」

四十九 戦
 人間界における戦争は自然界における雷雨のようなものである。陰陽の調和が破れて上昇と下降の吊り合いを失えば必ずこの上もない大雷大雨が起って、そしてその後に初めて天は澄み、地は潤って、草木は佳気をおび鳥獣に喜色の現われるのを見る。利害が相反して情理の通ずるところ無ければ必ず忿戦忿争の一場面があって、そしてその後に、初めて文明の光が布かれて和らぎ親しむ光景の生じるのを見る。自然界に雷雨は無くならず、人間界もまた戦争を無くすことができない。
 戦争は水である。その水が人に触れると寒冷を感じさせて戦慄を生じさせるが、しかしまた人の垢や汚れを洗い去る。
 戦争は火である。人間界の金鉄(強固なもの)をどうにもしないが、ただその鉛錫の類(溶け易いもの)を溶かし去って地に委ねるだけである。
 古(いにしえ)の戦争は裁断するものの戦争であり、今の戦争は爆発するものの戦争である。物に着目して戦争を観ればこのようである。
 古の戦争は武人と武人の戦争であり、今の戦争は国民と国民の戦争である。人に着目して戦争を観ればこのようである。
 古の戦争は腕の戦争であり、今の戦争は脳の戦争である。身体に着目して戦争を観ればこのようである。
 古の戦争は猛獣の闘いのようであり、今の戦争は猛禽の闘いのようである。状態に着目して戦争を観ればこのようである。
 古の戦争と今の戦争とは異なっているか、同じであるか、異中に同有り同中に異有りであるが、要するに古の戦争は人の情を衝動すること甚だしく、今の戦争は人の情を衝動することは甚だしくない。古の戦争では人の智の存在は大きくなく、今の戦争では人の智の存在が極めて大きい。古は人と人とが眼を合わせ刀を打ち合い矢を放ち合う、それが人の情をどれほど衝動したことであったか。今は隊と隊とが戦うこと多く人と人とが戦うことは少なく、自分が誰を傷つけ誰を害したかを知らない、人の情を衝動することは古に比べると少ないと云える。今の戦争は鉄砲の使い方から進退の方法に至るまで、皆これ英俊の将士が苦心し熟慮し精思を積んで初めて成し得た、知恵の結晶であって、各々が燦燦(さんさん)と光輝を放って存在するのを見る。古の戦争にも人の智が存在したことは少なくないが今と比べると甚だ少ないと云える。
 人の情は火花のように忽ち生じ忽ち滅す。人の智は砂金のように採集し蓄積することができるので、人間の歴史が長くなるに従って、人の智は次第に蓄積されて、恐ろしいほど驚くほど大きな塊に成ろうとしている。よく古今の戦争を比べて見て、社会の趨勢を窺い知るべきではないだろうか。
 情は私有され智は共有されるのが、その本来が持っている性質である。好悪や喜怒の情は甲必ずしも乙のようでなく、乙また必ずしも丙のようではない。これは人の情が個々の人において私有されるのを本来の性質とするからである。認識して理解する智はこれに反する。甲の認めるところは乙もまた認めない訳にはいかず、乙の理解するところは丙もまた終(つい)にはこれを理解する、これは智が共有されることをその本来とするからである。このようにして聖賢が抱いた優美な情懐は我々に影響を与えること少ないが、硫黄と硝石と木炭粉との混合物が何を為し、硝酸や硫酸に浸された綿が何を為すという事は、永く忘れられずに我々に伝わって重大な影響を与える。十九世紀や二十世紀の詩は古の詩に比べてどれほど美しいであろうか、アア歎くのみである。十九世紀や二十世紀の戦争は古の戦争に比べてどれほど進歩したことであろうか、アア歎くのみである。
 ならば智は人間に堆積して、終(つい)に黄金世界をもたらすであろうか、否(いな)である。情は長く個々の人に私有されて人類全体の優美を増進することなく終わるであろうか、否である。人の智は共有される、それなので戦争が完全に智によってなされる時が来れば、戦争は終に無益の行いとされて自然に休止するに至るであろう。人の情は私有される、そうではあるが、世には詩と云うものがあって、人はこれを共有しようとする。もし詩に於いてよく人類の共有に堪えるものがあり、もし人に於いて皆が詩をよく理解する時が来れば、世はまことに花の香りに充ち満ちた平和な昔に還るであろう。
 人の尊い智が進歩に進歩を重ねて戦争を成立させない時の来るのを期待するがよい。人の美(うる)わしい情が拡大に拡大を重ねて共有される状態の来ることを希望するがよい。
 正しい戦争は生存のために起きる。しかし戦士は生存のためにしてはいない。
 敵に痛苦を与えて戦に勝とうとするのは誤りである、自身がよく痛苦に堪えて戦勝を得るがよい。
 敵に我が皮を斬らせて敵の肉を斬り、敵に我が肉を斬らせて敵の骨を斬り、敵に我が骨を斬らせて敵の生命を奪う、これが闘う道である。勇士の道である。
 敵に我が影を撃たせて我は敵の実を撃ち、敵を逆境において我は順境に乗じ、敵に地の利を失わせて我は地の利に拠って、敵陣の和を乱して我が陣の和を保つ、これが良い作戦の道である。智者の道である。
 勇士の道を知り智者の道を知る者は百戦百勝する。戦う道を知って作戦の道を遺(わす)れる者は、或いは有利な戦いでも時に破れる。すでに良い戦士が居て良い参謀があるのであれば、畏れるところは無い。

注解
・硫黄と硝石と木炭粉との混合物:火薬。
・硝酸や硫酸に浸された綿:ニトロセルロース。

五十 戦と詩歌
 我が国の古い和歌には戦に関するものは多く無いだけでなく、その勇壮猛烈で人の気を鼓舞し、志を励ますに足るものの大層少ないことは、まことに口惜しい事である。平安時代以後は、何事も文弱に流れて、優美は余りあるが崇高は足りず、意(おもい)を述べて情を叙す歌なども、あわれで悲しく切ないものは多いが、壮烈で魂を震わせるようなものは殆んど無い。これは一つには多涙的で不争闘的で婦女的で薄志的で萎靡的な仏教の教えが世の行われた結果、元来は勇武健剛の性質である神州男児(日本男子)も、知らずしらずのうちに男気乏しく児女の情だけが多い和歌を作るようになったためであるが、他の一面にはいわゆる和歌の作者のたいていが、皆歯を染めた白粉顔(おしろいがお)の貴族か、そうでなければ深窓の高貴な婦人というわけで、おのずから花見や観月に関する和歌などがいたずらに多く、婦人に意(おもい)を寄せる類のものだけがやたら多くなったからである。
 平安以後は頼朝の時代になって政権が武士の手に落ちたので、自然の勢いとして、社会の勢力者である武士の本来の務めである、即ち戦の和歌なども世に出るべき理屈であるが、当時の武士等は既に自分等が日頃使っている言語とは別の古語を使用して、いわゆる和歌などを詠むなどは不必要、もしくは煩わしいと考えたと見えて、多くの武士等は和歌などには関係しなかった。又、たまたま自分から悦んで和歌に遊んだ者たちも甘んじて平安の形を踏襲して、平安の形で無ければ和歌ではないなどとの誤った思想で和歌を作ったので、前代の遺物と少しも異なることなく、却ってそれよりも生気や色艶の欠くものに過ぎなかった。そのため頼朝以後は武士が政権を執った時代ではあったが戦に関する和歌などは甚だ少ない。徳川氏の時代になって古学が復興したが、またまた前代と同じような現象を繰り返したに過ぎなかった。特に徳川氏の時代はその末年を除くと甚だ太平であったので、戦について感情を衝動し詠嘆の辞(ことば)を発しなかったのも当然の現象といえる。このようなことで平安以後の和歌には、戦争についての価値ある和歌が無かったのも当然の現象と云える。人がもし私の言を極端である納得できないとするならば、試みに平安以後の多くの和歌集の類を繙いて調べてみるがよい。必ず戦のことが詠まれたものの甚だ少ないのに驚いて、私の言の必ずしも言い過ぎで無いのを悟るであろう。また翻って今の歌人たちが、今日(こんにち)のこの古今未曽有の戦争に関して、どのような和歌を詠じ出したかを調べるがよい。その詩想の狭小で想像の偏古なことを感じ、その用語の貧弱で詩材の乏しいことに気付くであろう。これは即ち在来の和歌に占める戦に関するものが、如何に狭隘狭小だったかを語るもので無くて何であろう。
 ただし我が国の平安以前は、我が神州男児の意気性情には、なお天真爛漫なものがあって、万葉集には征戦に関する和歌も比較的多く、また取り上げるべき佳語も少なくない。これは支那やインドの悪影響を受けることが少ない時代の我が国の人の思想が健全であったことをものがたるもので、万葉以前の和歌に至ってはますます勇武壮烈な部分の比較的多いことは、また実に我が神州男児の本来の性質が、決して後の世の和歌が示すような軟弱怯懦なもので無かったことを語るものである。
 「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは。・・今日から家も身も顧みることなく、大君の強い御楯となって私は出立するのである。」おもしろい歌である。調べもよし。意もよし。
 「千萬(ちよろず)の軍(いくさ)なりとも言挙(ことあげ)せず取りて来(く)ぬべき男(おのこ)とぞ思ふ。・・千万の軍であっても平然と打ち取って来る男であると思う。」これもおもしろい。
 「海行(ゆ)かば水漬(みづく)く屍(かばね)。・・海を行けば水に浮かぶ死骸。」という詞は誰もが知っていることであるが、勇ましくて心地よい語である。
 「霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に我れは来にしを。・・鹿島の神に祈って皇軍の兵として私はやってきたのです。」これもまた情があり気があって好い歌である。
 「酣歌(かんか)壮士を激す 以て妖気を摧(くじく)べし 齷齪(あくせく)たる東籬(とうり)の下 淵明群れとするに足らず。・・高らかに歌って壮士を激励する、これでもって妖気をくじくがよい、東の垣根の下で酒を飲む淵明などは役に立たない。」と千古の高士の陶淵明を罵って、はやる気持ちを洩らしたのは李太白の詩句である。九日(きゅうじつ)なので偶々(たまたま)云い及んだのであろうが、いかにも手強く男児らしくて面白い。淵明もまさに苦笑するであろう。
 「風頭(ふうとう)は刀の如く、面(めん)は割(さ)かかる如し、馬毛は雪をおびて汗気蒸す。・・刀のような風に顔面は割れるようだ. 馬毛は雪を帯びて汗気が蒸す。」これは岑参の詩句ではないか。
 「旗は暁日(ぎょうじつ)を穿(うが)って雲霞雑(うんかまじ)わり、山は秋空に倚(よ)って剣戟(かんげき)明かなり。・・軍旗は朝日に照らされて雲や霞とまじわり、山は秋空にそびえて剣や戟(ほこ)のように明らかに見える。」これは韓愈の詩句ではないか。このような詩句は決して古今の絶唱というのではないが、これに匹敵するものを我が国の和歌に求めても、終にこれに敵うものは無い。甚だしいではないか平安以後の歌人の振るわないことは。支那には元亀天正の武士は無い。日本には従軍出陣の佳詞が無い。
 「手を抗(あ)げて凛(りん)として相顧みれば、寒風鉄衣に生ず。・・手をあげて確りと振り返り見合えば、寒風は颯(さっ)と鎧に生じる。」ただこれ二句十文字ではあるが、例えば死士十騎が連れ立って往くような壮烈極まる光景が一誦のうちに現われ、再誦すればその情が現れる。誦し終わって瞑想すれば、この情この景を某所でツイ昨日見たような感がある。太白の詩に敵なしの言葉は人を欺かない。
(明治三十八年二月)

注解
・酣歌壮士を激す・・・:李白の詩、「九日登巴陵置酒望洞庭水軍」。
・李太白:李白、中国・唐の詩人。太白は字(あざな)(通称)。
・陶淵明:中国・南北朝時代の詩人。
・九日:九月九日は重陽の節句の日。この日は菊酒を飲み、栗飯を食べて無病息災・長寿を願う。
・岑参:中国・唐の詩人。
・韓愈:中国・唐の詩人。
・手を抗げて・・・:李白、「送白利從金吾董將軍西征」。
・死士:死を覚悟した兵士。


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