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幸田露伴の随筆「潮待ち草30・31」

三十 飢
 飢えて食べ物を求める切実な気持を、火が焼くようだと喩えるのは昔から常に云われて来た言葉であるが大層おもしろい。病気でもないのに食事を二度三度と抜けば、腹の中は火で焼けたようになって、早く何かを飲み下してその火を鎮(しず)めなくてはどうにも堪らないと思うが、しかし心が他の事を思っているうちはそれほどには思わない。例を挙げて云えば死を思うようなことである。無情迅速である死が今や眼の前に迫ったと切実に思えば、心はそれに惹かれて自然と、食を忘れるのではないが、飢えが甚だ迫っていることを感じない。しかし、そのうちにその心が動き出して、思わず知らず食べ物のことなどに行ってそこに止まれば、忽ち恐ろしい飢えを感じて、唾液さえ何時しか湧き出して、居ても立っても居られないような心地になる。それでもなお我慢して食を摂らなければ、二日・三日・四日・五日と経った後には、次第に食を思う気持ちもそれほどでも無くなり、身体もまた次第に衰えて、些細な事にも心が驚いて脈が亢(たか)ぶり、ともすれば自分の心臓の鼓動が明らかに分かるようになって、精気は日々に減ってゆき、雑念の働きも何時しか女性的になってさざ波のように繰り返す。人の体質や性質と思想と境遇と各自の鍛錬とによって一様では無いだろうが、飢えによって最も早く攻め立てられて自然に解消するのは淫欲であり、あまり変動しないのは想像力と信力だと云われている。

注解
・無情迅速:物事の移り変わりは極めて速い、人の死もそのとおり思い掛けず早々と訪れる。

三十一 繋縛
 心の中に物も無く思いも無ければ、どんなに楽しいことだろうとは、多くの人の想うところである。しかし、無念無想に成るのは一朝一夕にはできないものである、善念善想を抱く他は無い。「心は繋縛されればかえって安心で、舟は舫(もや)い繫(つな)がれれば動かない。」と云う魏子の言葉は、人を欺かないと云える。凡人の器量で無念無想に成ることを願うより、何(ど)の道でも何の教えでも何の信仰でも何の遊びでも何の事業でもよい、何か一ツの事に我が心を繋縛するのが宜(よ)いのである。職務に忙しい人が急にその職務を離れれば、多くは心が迷い悶えて病気になる。又、暇にしていた病気がちの人が新たに職務に就いて働くようになると、かえって健康になることも世には多い。未だ善人にも成れない分際で善悪を超越しようなどと願うのは危うい。


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