見出し画像

幸田露伴の随筆「潮待ち草12~14」

十二 黄素妙論
 世に「黄素妙論」と云う書がある。その奥書によれば天文二十一年に今大路道三が房中の術を記した漢書を和訳して、これを松永弾正に与えたものである。しかし、その書は甚だ愚劣で論じる価値も無いもので原(もと)が支那(中国)の書だと云っても、道三がこれを訳したと云っても、信貴山の城主(松永弾正)がこれの伝授を受けたと云っても、これは皆すべて後人が捏造したものと思っていたが、それが決してそうではなく、古くから支那にその書が存在していた確証のあることを知った。房中の術によって仙人になって災いを防ぐべしと思うのは支那の古い迷信で、その術を記す最も古い書が何時の時代に出来たものかは知らないが、晋の時代には既にこれ等の書が在ったようで、仙人の葛稚川(かつちせん)もこれを排斥して、「巫書(ふしょ)であり人を誑(たぶら)かす誤った説である」として、「古人は人が本性を勝手気ままにさらけ出すのを恐れて巧みにこの説を為す、悉く信じることのできないものである。」と云った。「黄素妙論」が根拠とする「素女経」等は「隋書」の経籍志に初めて出た。葛仙の言に、「房中の法十余家」と云い、「房中の術近く百余事あり」と云うところから考えると、「素女経」等が伝えるものは実に晋代の十分の一、百分の一程度の極く僅かであり、しかもまた既に葛仙が、「玄素・子都・容成公・彭祖の輩の、思うにその概略を載せるが、ついに至要な者を紙上に著わしてはいない。」と記すのに照らせば、たとえ今伝わるところの「素女経」等が全て信じられるとしても、その価値の無いことは云うまでもない。ましてまた葛仙は甚だ丁寧に、「もし此の口伝(くでん)の術を得なければ万に一人も之を為して、そして自らを殺傷する
ない者は無いのである。」と云ったではないか、実に素女経などの無用の書は焼き捨てるだけである。
 しかしながら葛仙もまた、「陰陽の術の優れたものは軽病を治す」と云い、「隋書」の経籍志も子部の医家類に「素女経」の類を収めているところを見れば、当時の人はこれを戯事(ざれごと)としないで、真面目に医術の一ツとしていたようで、唐との交通が甚だ盛んになると、我が国の人も彼の国の風習に感化されて、次第にこれを信じるようになった。円融帝の頃の人である丹波康頼が撰した「医心法」三十巻の中の二十八巻に、「彼の国の書によって房術を記載すること甚だ少なくない」と云うのも、思うにこれは房術を戯事視しないで医術視した証拠である。道三と康頼とは年代の差が五六百年あるが、道三も医者なので「医心法」以来の旧説に拠って、或いは明(みん)から伝わった書に拠って、房中の術を松永弾正に授けたことが無いとは断定できない。であれば、則ち民間に伝わる「黄素妙論」なども弾正が陣中においても大切に秘蔵していて、茄子の茶入れや平ぐもの茶釜と同様に、他人の手に渡すハズのないものであったことを知らなくてはいけない。「首になっても我の前に来るような奴で無い」と、信長に手強(てごわ)く思わせたほどの松永弾正も、道三に房術を伝授されてこれを信望したとあっては、自ら最悪最劣で滑稽な話を作ったと云うべきである。

注解
・黄素妙論:黄帝と素女の性をめぐる対話による妙論。
・今大路道三:安土桃山時代~江戸時代の名医。
・房中の術:性の養生術。
・松永弾正:松永久秀、戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国の戦国大名、信貴山の城主。
・葛稚川:葛洪、稚川は字(あざな)。中国・晋の人、「神仙伝」、「抱朴子」の著者。
・巫書:いかがわしい書物。
・素女経:古代中国の仙道と房中術に関する性書。
・「隋書」経籍志:「隋書」巻三十二から三十五。
・玄素:玄女と素女、黄帝はこの二人から房中の術を授かった。
・子都:「神仙伝」によると漢の武帝に房中の術を伝授したと云う。
・丹波康頼:平安時代中期の貴族で医者。
・医心法:丹波康頼が撰集した医書。
・茄子の茶入れや平ぐもの茶釜:松永弾正が愛蔵した茶道の名器。

十三 錬金術
 神仙道を修める者が老子を道の祖とするのは早い頃からの事であろうが、思うに唐の時になってその勢いが確定して、老子は即ち神仙の棟梁であり、「老子五千語」は即ち神仙道の経典であるかのようになったのだろう。唐の帝王の姓がたまたま老子と同じなことと、老子の書が神仙家から愛重されていたところから、仏家に対抗してその勢力を伸ばそうとする道士の輩が、唐の帝王と同姓の老子のことを力を極めて尊崇して、老子を自分等の宗師とした、その狡猾な行跡は史上に明らかであり、仏教が迫害されたのもこの時のことで、道士の輩の画策はよくその功を奏して政治はやや抑仏揚道の傾向になり、老君廟(老子廟)は杜甫に「山河は繡戸(しゅうこ)を扶(たす)け、日月は雕梁(ちょうりょう)に近し(山川の景色は刺繡で飾られた扉を引き立て、日月は絢爛とされた梁の近くで耀く)」と詠じさせた。このようにして終(つい)に後世の人に、老子と神仙家の関係が釈迦と仏教徒の関係と同様のように思わせることになった。老子と神仙家は決して関係するところがないとは云えないが、老子五千語の中の何処にいわゆる神仙家が竈(かまど)を築いて丹薬を煉(ね)り、護符を帯びて山に入り、脇目も振らず一心不乱に師を求めて誓いを立て、精苦して昇天の道を成就しようとするようなことが、記されていると云うのか。
 葛稚川は神仙の道を修めた者である。しかし、神仙の術に関する葛洪(葛稚川)の「抱朴子」の中の釈滞の章には、「五千文は老子に出るといえども、皆これ物事の概略を広く論じただけである」とある。唐以前の人は神仙家であっても、必ずしも道徳経(老子五千語)を指して道教の聖典や秘文とは見ていなっかたことを知るべきである。その雑応の章に、老君(老子)の真形を諦念することを記して、「この事は仙経に出ている」と云っているところを見れば、神仙家が老子を尊崇することは、必ずしも後世に始まったことだとは云えないが、要するに老子の遺した書に一言も煉石還丹(錬金術)の事など触れられていないことでも、老子を指して神仙道の祖として道徳経を神仙道の経典のように説くのは、後世の道士の輩のこじつけに過ぎないと云える。

注解
・老子:中国・春秋時代の哲学者。姓は李、名は耳、字は聃。
・老子五千語:「老子」のこと、「老子道徳経」、「道徳経」とも云う。
・老君廟:老子をまつる廟。
・抱朴子:葛洪(葛稚川)の著書。内篇二十篇、外篇五十篇が伝わる。内篇は神仙術に関する諸説を集大成する。
・煉石還丹:石を煉って丹薬に還元する(錬金術)。

十四 幽谷
 「老子」の解釈は秋田の金蘭斎(こんらんさい)の「国字解」が最も好ましい。卑俗(民間人)だからと云って、軽蔑してはいけない。丁寧詳密なのは太田晴軒の「全解」が一番である。蘭斎の解釈は時に異議のあるものもあるが、その独立不羈の人柄は悦ばしく、その解釈もまた真率で味わいがある。「跂者不立(きしゃふりつ)の章」の「物之を悪むこと或り」と云うところの解釈で、「或の字は、真綿で首なり」と云ったようなことは、言葉づかいに拙いところはあるが、その云いたいことを云い切った様には、その自由奔放な人柄も想いやられて面白い。これとは趣(おもむき)を異にするが、聞きたいと思ったのは水戸の藤田東湖(ふじたとうこ)の父である幽谷(ゆうこく)の老子談である。幽谷は老子や荘子を憎むこと甚だしくて、人に冗談に「私は老子の木像を造って、傍に置いて、コツンコツンとその頭を叩いて拍子を取りながら、その書を説こう」と云ったと云うが、幽谷がモシ「老子解」を著わしておいたなら、その可笑しなことは、卜部兼好(うらべけんこう)を憎み侮って「徒然草」の解釈を著わした高屋近文の「明汗稿」の比ではなかったろうが、そのこと無く終わったことは、惜しいことであり残念なことである。

注解
・「老子」:老子道徳経、道徳経、老子五千語などとも云う。
・金蘭斎:江戸時代前期-中期の儒者。伊藤仁斎に学ぶ。
・太田晴軒:江戸時代後期の儒者。
・藤田東湖:江戸末期の学者。水戸学の大成者。
・藤田幽谷:江戸時代後期の儒者。水戸学の中心人物。
・卜部兼好:鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての随筆家。
・高屋近文:江戸時代中期の神道家。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?