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1.3ドルのあこがれ

子どもの頃、絵本の世界にあこがれていた。

記憶にあるのは、ムーミン谷シリーズに登場する「こけもものジャム」。こけももの実がなんたるか、見たこともない小学生の私は、赤いつやつやした、甘酸っぱいゼリーのようなジャムをうっとりと想像した。

畳にちゃぶ台の昭和スタイルだった実家では、イチゴジャムを食パンに塗るのが精いっぱいのおしゃれだ。パンケーキは存在せず、ホットケーキミックスが3時のおやつだったあの頃。

遠い場所ほど、いつか近づきたいと夢見る。たぶんそれは、子どもが抱くファンタジーなのだろう。

ニュージーランドで暮らす娘のあこがれは、1.3ドルで買える。街中のアジアンスーパーで売られている、油揚げだ。

油揚げが、海外の田舎都市でどのように売られているか知っているだろうか。あれは、冷凍されている。ちなみに、納豆も冷凍だ。フリーザーに入った、コチコチの油揚げ。3枚入りで、3.9ドル。

はじめてこの街で油揚げを目にしたのは、2週間ほど前。それまでは、油揚げを取り扱うスーパーがなかった。この街にないだけで、約30倍の人口が住むオークランドにならあるかもしれない。

だから思わず、手を伸ばしてしまった。さわると、ひんやりと冷たく固い。日本のスーパーの品ぞろえとは、比較のしようがない。いくつものメーカーの油揚げが並ぶ光景とは違い、アジアンスーパーの冷凍庫に収まっているのは、たったの1種類だ。

もし私が一生この街に住んで、口にするのが「富〇の里」の油揚げだけだったとしても、きっと悪くない人生だ。そう思えるくらいには、私は油揚げが好き。そして、うちの6歳の娘も。

解凍ついでに油抜きをしようと、固いキツネ色の1枚に熱湯をかける。包丁で短冊切りにすると、ザクザク音がする。

ふつふつと、水分を吸って心なしかふっくらした豆腐が浮かぶ鍋に、ぱらぱらと油揚げを投入する。熱でふんわりひらく油揚げをみて、よしよしと、にっこりする。

味噌を溶いて小口に切った緑のネギを散らせば、ちゃんとした「豆腐と油揚げのお味噌汁」だ。この組み合わせ、ぜんぶ、大豆だなっていつも思う。

見慣れぬ茶色い切れ端を、いぶかしんでいた娘は、一口食べて「日本で食べたやつ!」と嬉しそうに言った。「4切れしかなかった~」と悲しそうな声を出せば、双方から手が伸びて、娘のお椀の油揚げが増える。たいへん、甘やかされている。


外見はまったくのアジア人で、日本語と英語を話す彼女は、油揚げを知っていても、がんもどきはまだ知らない。ミスドのポンデリングをまた食べたいなあと目を輝かせ、次に日本に帰ったら、お魚の形のパンと彼女が呼ぶタイヤキを食べるんだと教えてくれる。

違うな、と思う。血がつながっている親子だけれど。異なる国で育つ娘の目に映る、遠いものと近いもの。母親の私とは、当たり前のように、別世界を見ている。

ブラックカラントのジャムをパンケーキに塗る娘には、もしかしたらムーミン谷の世界のほうが、油揚げやタイヤキよりも現実味があるのかもしれない。彼女がいつか行きたいと口にする場所は、きっと私が想像もつかないところなんだろう。


ちょっと難しく考えようとしたけれど、1.3ドルのあこがれが娘の心を満たしたのを眺めて、「まあいっか」って思った。またお味噌汁に入れてねって娘が言ったから、もう冷凍庫にストックしてる。

日本で食べる油揚げのほうが、断然においしいのだけれど。そんなことは、伝えなくていいよね。だって、あこがれなんだもの。


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