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最初でさいごの #ファーストデートの思い出

好き、を言葉にしなかった恋がある。

あの日、私は東京駅の改札で、夫ではない男性と待ち合わせをしていた。マフラーが手放せなくなって、人肌が恋しくなる冬のはじめだ。

10年前のあの頃。世間はリーマンショックの余波が色濃く残っていて、私は当時流行っていた曲も覚えていないほど、終電ギリギリまで擦り切れて働く会社員だった。

でも、それももうすぐ終わる。今月、婚姻届を出した。年が明けたら、海外に行くことが決まっている。だから、彼に会うことにした。

入籍して1か月もたたないうちに男の人と二人きりで食事をするなんて、そわそわと浮足立つような秘密のにおいがする。

誤解しないようにいっておくけれど、彼と私は正真正銘の友達だ。残念ながら、一度も恋人関係だったことはない。

橋村くん、通称「ハムちゃん」と出会ったのは大学一年生のときだ。キャンパスに舞う桜の花は美しく、希望にあふれる春はやさしかった。

都内の複数大学の生徒が所属するサークルで、ちょうど同じ大学の在校生だったのが私と友人の翔子ちゃんと、そしてハムちゃんだ。

ハムちゃんは、黒縁眼鏡をかけていて、いかにもお勉強ができそうな感じで、くりっとした目が愛嬌があってあだ名の通りハムスターにちょっと似ていた。

ハムちゃんと呼びだしたのは、翔子ちゃんが最初だ。

友人の翔子ちゃんは、ハッキリ言って美人だ。猫みたいに丸い瞳と、すらっと伸びた足が彼女のチャームポイントで、一緒に遊んでいると彼女目当てにナンパしてくる男の人がいる。翔子ちゃんは、私と違って男の子とすぐに仲良くなれた。

「ハムちゃんでいいじゃん。なんか可愛いし」

翔子ちゃんが笑ってそう言うと、当のハムちゃんは「嫌だよ」と言いつつもなんだか嬉しそうだった。

私たちは、三人でよく一緒に過ごした。バカ山と呼ばれる、キャンパスにポツンとある緑の丘でお昼を食べた。安い学食のテーブルを囲んで、紙の辞書とにらめあいっこしながら課題をやった。

ハムちゃんは、帰国子女なの?ってくらい英語ができたのでよく宿題のお世話になった。

「どこでそんなに勉強したの?」ときいても「んー、いろいろ」とさらりと流すだけ。真面目だなあと思いつつ、彼が積み上げてきた努力を想像してひそかに尊敬したりした。

私は大学の近くで寮暮らし。二人は自宅からの通い組。日が暮れる頃、図書館から出て駅に向かう二人を「またねー」と見送る。

新緑が芽吹き湿気がうっとしい梅雨が終わる頃、私はハムちゃんを好きになっていた。

好き、という気持ちは彼を独占したいほど燃え上がるようなものではなくて。大学生なのに恋人がいないのは寂しいなとか、よく顔を合わせる男友達の中でハムちゃんがやっぱりいいな、みたいな。

淡いといえば淡く、若いといえば若い、恋心の芽みたいなもんだ。

翔子ちゃんに相談しようと思った。

まだハムちゃんに伝える勇気はないけれど、この微かな恋心を口にしたい。誰かに聞いてほしい。

けれど、恋愛の神さまは私に味方してくれなかった。

あの日、翔子ちゃんと約束した夏休みの初日。待ち合わせ場所に現れたのは、二人だった。

「付き合うことになったの」

照れくさそうに目を合わせる翔子ちゃんとハムちゃん。

「うわあ、おめでとう」

それしか、私にはかけられる言葉がなかった。だって二人は、いつも一緒の三人組に気を遣って真っ先に教えてくれたのだから。

帰宅して、別の友人に電話しながらわんわん泣いた。翔子ちゃんが憎いとかズルいとか、そんな気持ちはなかった。ただ、芽吹くこともなく伝えることもできずに終わった恋心の行き場がなかった。

「うれしいんだけど、かなしいんだよ」と泣く私に、友人がかけてくれた言葉を今でも覚えている。

「でも、それって神さまが、三人ずっと友達でいられるようにしてくれたんじゃない?」

「ハムちゃんに告白してたら、仲良くなんて無理だったでしょ?」

そうかな。そうなのかも。そうやって成仏できなかった恋心は、ストンと友情に変わった。

人が行きかう東京駅の改札口を、ハムちゃんがいつ出てくるのかと眺めていた。待ち合わせ時間を、15分すぎている。10分前に「ごめん!今オフィスを出た!」と連絡が来たから、もうすぐ着くだろう。

あ、見えた。黒縁眼鏡の彼だ。

「ごめんごめん、遅くなって」

あの時と変わらない、愛嬌のある顔で笑う。別に怒ってないよ。並んで歩くと、ハムちゃんは私よりちょっと背が高いくらい。見上げると横顔が近くて、何から話そうか迷う。

「久しぶりだねえ。1年ぶりくらい?」

大学時代は毎日顔を合わせていたのに、社会人になると会えなくなるもんだな。

ハムちゃんは、お店を予約してくれていた。東京駅の丸の内らしい、おしゃれなレストラン。静かな曲が流れていて、照明も落ち着いている。恋人同士でもないのに、デートにぴったりそうなお店を選んでしまう友達の彼。

向かいに座るハムちゃんを見る。よく見ると、黒縁眼鏡がなんだか洗練されたデザインになっている。

ハムちゃんのくせに、と心の中で思った。彼はいつも女の子に対して、どこか不器用だ。翔子ちゃんと別れてから何人か彼女の話は聞いたけれど、いまはフリーらしい。仕事が忙しすぎると話すハムちゃんは、それでも楽しそうに見える。

「風呂場の電球が、もう3日も切れてるんだよ」

情けなさそうな声をだす。

「俺も結婚したい」

と言いながら、本当は仕事優先で彼女を探す気がないことを知っている。

「まさかねえ、海外に行っちゃうとはねえ」

ハムちゃんは、お酒をほとんど飲まない。なのに、お酒が好きな私に付き合ってグラスワインを頼んでくれる。いいやつだ。

「でも、行く前に会えてよかった。二人で話したかったから」

どういう意味だろう、とは聞かないでおいた。見知らぬ異国で暮らすことになった私を、心配してくれているのがわかったから。

大学時代、精神的にまいってしまい引きこもっていた時期がある。授業に出席しない私を、ハムちゃんは「最近どう?ちょっと話さない?」と外に連れ出してくれた。ただ話を聞いただけだよって彼は笑うけど、あのとき一人じゃないって思えたから、いまこうしてやっていけるんだよ。

頻繁に会うわけでもない。毎日のおやすみメールもない。でも、顔をあわせば笑顔になれて、なにかあったと聞けば心配してくれる。

男友達と呼ぶ彼だけど、「大好き」以外にこの気持ちを伝えられる言葉なんてあるんだろうか。

ふたりで会う時間は、心地よくてくすぐったくて楽しかった。ハムちゃんの仕事の話を聞いて、たまに大学の頃の思い出話をする。デザートに運ばれてきたケーキに、バチバチ花火が刺さっていた。結婚祝いだって。ベタな演出なのが、しみる。

店を出る前にトイレに立つと、1件の新着メールがあった。開くと、

(サバの味噌煮つくった)

と煮魚の写真が添付してある。家で待っている夫からだ。くすっと笑って、携帯をバッグにしまう。入店が遅かったから、もう11時になる。終電前に、駅に向かわなければ。

外の風はさらに冷たくなって、二人ともマフラーをぐるぐる巻いた。

東京駅の明かりがこうこうと光って、周りにはたくさんの人が歩いているのに誰も私たちのことを気にしていない。光が頭上にきらめく夜の道を歩きながら、いまなら言えるような気がした。

横断歩道の信号は、赤だ。横を見ると、慣れないお酒に少しだけ酔った彼の耳も赤い。

「ねえ、ハムちゃん」

「ん?」

黒縁眼鏡の奥の瞳が、私を見た。

「私さ、ずっとハムちゃんのこと好きだったよ」

一瞬、彼がたじろいだ気がする。心が揺れるみたいに、二人の間の空気が動いた。

「うん、知ってた」

ハムちゃんはちょっと笑って、顔を隠すように信号を見ていた。なんで知ってるんだよ。ポケットに両手を突っ込んだまま、隣のハムちゃんの肩を小突く。よろけて、彼が笑う。

「じゃあいまからウチ来る?」

冗談だ。これは、ハムちゃんの渾身の冗談なのだ。だって彼に触れた左肩が、熱を持ったようにじんわりとあつい。

「……行かないよ」

マフラーの隙間から漏れた息が、白くなって夜の暗がりに溶けた。キスさえできそうな二人の距離に手を伸ばすことなく私は、彼の風呂場の切れた電球と夫が作ったサバ味噌のことを考えていた。




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