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しゃらしゃらと鳴るスカートをつかむ子がいないとなりを駆ける春風

大きくなったな、と思う瞬間は、どこにでも転がっていて。それは、テレビの裏に隠れていたビー玉みたいに、ある日に顔を出してなんだか光る。


子どもがもっと小さかったころ、具体的には歩き出しても前につんのめるような足運びをする頃、私は毎日ズボンをはいていた。子を追いかけ、目線を合わせ、抱き上げる生活に洋服の機能性が必要だったからだ。

でも私が今より若かったころ、具体的には社会に出たばかりで毎朝田園都市線にゆられ永田町まで通っていた頃、クローゼットのなかはスカートばかりだった。ゆれているのは、プリーツの細かいスカートや柔らかなシフォン生地ばかり。

それらが、妊娠出産を経て陽の目を見なくなり、いつしかズボンが日常生活のスタメンになって、おしゃれとはいったいどんなものかしらと思う頃、再びスカートが戻ってきた。

手に取るものは、大体が丈の長いロングスカートだ。私がスカートをはくと、ちいさな娘がやってきて「おしゃれー」とシャボン玉が弾けるみたいに笑う。裾にまとわりつくように手を伸ばす。娘の背丈がまだ私の腰よりも低いころは、しょっちゅうスカートを引っ張るものだから、「それやめて」とよく言った。

去年の8月の終わりに7歳になった娘は、とっくに私の腰の高さを追い越して、いまや頭が胸の下まで届く。抱き着いてくると、ちょうどお腹のあたりをぎゅっと締め付けてくるので、ちょっと苦しい。


秋が、風にまざりはじめた週末、庭に落ちている大量のフェイジョアの実をとろうとデッキに出た。娘もやってきてサンダルを履く。ふと、大きな窓に映る二つの影を見た。

サテン地のロングスカートのプリーツが、風に流れている。その前を、娘がスキップするように通り過ぎる。あ、大きくなったなと思った。風になびく、つるつるとしたスカートの裾をつかんではしゃぐあの子はもういないのだ。

子どもの可愛さは、その瞬間と過ぎ去ったあととで、違う景色を見せてくれる。だから、スマホの片隅から発掘した舌足らずなおしゃべりに取り返しのないことをしたような気持ちになるし、器用に歌ったり踊ったりする子を前にしようものなら、問答無用で目頭が熱くなる。

大きくなったと思うたび、確実に小さかったあの子を失って、そして「あんなにも可愛かったのか」と、もう一度小さかったあの子に出会う。あのときは気づかなかった、のではなく、たぶん、ここまで来ないと見えなかったのだ。


そんなことを考えながら、芝生を走る娘から受け取った緑の果実はまるくて、つるりと白く光った。


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