10年目のパスポート

「16 NOV 2019」

真新しい紙に印字された数字をなぞって、はたしてこんな年が本当にくるのかと不思議に思った。

2009年11月。仕事を無理やり切り上げて、新宿のパスポートセンターに駆け込んだあの日。

受け取ったパスポートの、新しい苗字を見つめる。これは、この先の旅に必要な切符だ。年が明けたら、夫となった彼と二人でニュージーランドに行く。旅行ではなく、住むために。永住権を目指して。

もしかしたらこれは、片道切符かもしれない。永住権がとれなくて帰ってきても、日本に居場所はあるんだろうか。

旅立ちの前に誰もが抱く期待と不安。10年後の2019年、私はどこにいるんだろう

あの頃の私に、伝えてあげたい。ここに、いるんだよって。


一緒に旅をしようと、彼は言った

「ニュージーランドに行こうと思うんだ」

当時、一緒に住んでいた彼が帰宅するなり私に告げた。「はあ」と生返事をする私とは対照的に、彼は真剣だ。

私は25歳で、彼は28歳。

聞けば、彼は二十歳の頃にワーホリで訪れたニュージーランドを忘れられないという。いや、いつか住みたいって話していたのは覚えているけど。本気だったんだ。

「海外移住」という人生に突如として振ってきたキーワードは、私にとって現実味のない夢物語のようだった。けれど、彼は着実に情報を集め、資金を集め、計画を立てていく。

彼がニュージーランドに行ったら、私はどうしよう。一緒に行く?

でも、英語もできないしやることないよね?

学校に入るにしても、お金はどうする?

前に進んでいるのかいないのか、わからない話し合いを何度も繰り返した。永住権がとれてから呼び寄せるといっても、数年も離れ離れなのは寂しい。ニュージーランド行ったことないけれど、羊がいて海でアワビがとれる場所なんだって。

連日の終電帰りで擦り切っていた私は、彼の語る未来にいいなあと思った。コピーが数ミリずれても、やり直しを命じられない。朝早く出勤して、時間外に新聞の切り取りをしなくていい。そんな社会なら、もう少し生きていくのが楽かもしれない。

冷静に考えると、ずいぶん他力本願な考えで、私はニュージーランドに憧れていた。

苦労はするけれど、二人でいれば寂しくはないよね。振り返ってみると、若いからこそできた決断な気がするけど。

一緒に旅をしよう

彼のその言葉で、ついていくことを決めた。


待っていたのは、大人未満の生活

初めて降り立ったニュージーランドは、想像していたよりずいぶん都会だった。

当時人口140万人だったオークランドは、この国最大の都市だ。

誰も知り合いのいない街で感じたのは、圧倒的な開放感とあてのない不安だった。電車の乗り方もわからない。バスの切符ってどうやって買うんだろう。夫が隣にいないと、私なにもできないじゃないか。

とりあえず英語をなんとかしようと、語学学校に入学する。学校に向かう初日、バスにはじめて一人で乗った。「To City(シティまで)」と運転手に告げたつもりだった。

渡されたのは、学校があるシティまでのチケットではなく、2時間乗り放題のチケット。運転手には、「Two」とだけ聞こえ「2時間チケット」と判断されたらしい。

これ、違うんですと伝える英語力も度胸もなく。数百円を無駄に払い、バスの窓から見える海と小さくそびえたつスカイタワーを眺めた。私、このさき大丈夫なのかしら。

日本では普通の社会人をやっていたはずなのに。この国では、まるで子どもに戻ったようだった。


先の見えない夜を照らす天の川

のんきに思い描いていた海外移住の理想と現実のギャップ。じわじわとダメージを食らっていく。くわえて、みるみる減っていく貯金。

数年分の生活費を確保していたけれど、永住権は本当にとれるのか。稼げる仕事はみつかるのか。先が見えない毎日は辛い。

二人で、日本食レストランでアルバイトをはじめた。私は昼間は語学学校。夫は調理師の学校で勉強。夕方、渋滞に悩まされながら車でバイト先に向かう。

肉体労働で腰が痛いと告げる私に、「がんばろうよ」と夫が激を飛ばす。二人で一緒の海外移住は、たしかに寂しくはなかったけれど。

バスチケットの購入もままならない妻をサポートする夫のプレッシャーは、相当だったに違いないと今ならわかる。

疲れと先の不透明さから喧嘩をすることが、なかったわけではない。けれどここまできたのだから、二人でやれるだけやろう。チームの団結力、みたいな気持ちがたしかにあった。

バイトが終わり、深夜に帰宅して駐車場から夜空を眺めると、頭上にはっきりと見える天の川。根拠はないけれど、明日はきっといい日になる。この国の空の広さがくれた気持ちに名前をつけるなら、「希望」だったなと思う。


やさしさが循環する社会で

もう一つ、異国で暮らす私たちを勇気づけてくれたものを挙げるなら、この国に暮らす人々の「やさしさ」だ。

そりゃ、国民全員が移民ウェルカムではないだろう。でも、出会った人は圧倒的に優しかった。よそ者を受け入れる、ここはそうした余裕がある国だ

シェアハウスの住人のポールは、車の買い方を教えてくれた。路上で「Sale」と売ってる車はよくないよ。ここのメカニックはいい人だよ。

ポールは40歳を超えて家具職人をやめ、デザインを学ぶために学校に通っている。夫に通訳してもらいながら彼の話を聞き、いろんな人生があるのだと思った。

名前も知らない人からもらったやさしさも、数えきれないほどある。

夫と二人で1週間分の食料を抱えて乗り込んだバスの運転手のお兄ちゃん。「どこのストリートに住んでんの?」と、バス停ではない家の近くで降ろしてくれた。

出産して子どもを連れてあるけば、どこいっても「かわいいわね」「ゴージャス!」と声をかけられる。

子を抱っこしながら自動レジの精算をしていたら、隣のご婦人が荷物を運ぶのを手伝ってくれた。ベビーカーで段差に苦戦していたら、笑顔でひょいっと手を貸してくれるたくさんの人。

もちろん、暮らしてれば感覚の違いに憤ることはある。問い合わせしても、1週間音沙汰なしのカスタマーサポートとか。怒るときもあるけれど、「当たり前」が違うのなら慣れるしかない

日本の国土の2/3、人口480万人。やさしさが循環する社会は、ずいぶんと息をするのが楽だった。


私のホームとよべる場所

正直言って、10年経っても自分は移民だなあと思う。現地の知り合いも少ないし、「溶け込んでる」とはいいがたい。

けれど、どっぷり「ニュージーランド人」にならなくても、ここでは穏やかに邪魔をされず生きていける。

移住4年目で出産した娘を通じながら、この社会に少しだけ触れる。娘は、この国で生まれ育っているので、立派な「キーウィ」だ(ニュージーランド人のこと)。平気で裸足で歩くし、流行りの歌もアニメもこの国のものを覚えてくる。

私自身が生まれ育った社会と異なる世界を覗くのは、戸惑いはあるけれど楽しい。新鮮だ。

たとえば、この国では小学校の入学は一斉ではない。5歳の誕生日から6歳までに入学すればいい。最近は、学期ごとの入学スタイルをとる学校もあるけれど、娘の学校は毎週のように「新入生」がやってくる。

枠組みがゆるやかな社会って、こうしたところから生まれるのだろうか。

学校の入学もバラバラだから、保育園の卒業もバラバラ。いわゆる卒園式のセレモニーは個別に行われる。

5歳の誕生日に、ニュージーランドの先住民族マオリの衣装である「コロワイ」をまとって嬉しそうに先生や友達に囲まれている娘。

仲の良かった先生と、セレモニーのあとハグをする。「いつでも戻ってきてね。ここは、あなたのホームでもあるんだから」と、優しい言葉をかけてくれた。

10年前は、誰ひとり知り合いがいなかった異国。いまでも、移民であることには変わりないけれど。どこまでも青く広い空を見るとホッとする。笑顔で挨拶をしてくれる友人に会うと、こちらも笑顔になる。

新しいパスポートを持って空港を飛び立ったあの日から、世界にひとつ、ホームと呼べる場所が増えた。


人生は、旅みたいなものだから

この国で死ぬまで暮らすかどうか、決めていない。もしかしたら、日本に帰るかもしれない。

一度移住をしたからこそ、簡単じゃないのがわかる。ニュージーランドで育つ娘が、自由に息できる場所で暮らすのも親の責任だと感じるし。

海外移住が「成功」したら、「幸せ」になれるような気がしていた。実際やってみるとそんなことはなくて、永住権を手にしようが目の前の生活は変わらないのだった。

お金の問題も言葉の問題も、つねについて回る。移民だからこそ、老後どうするんだみたいな不安もある。

それに友だちや親と気軽に会えない寂しさ。それは、異国で暮らす者にとっては悩ましい問題だ。

でも、旅をしようという夫の言葉に誘われて下した決断は、なかなか悪くなかったと思う

いってみれば、人生こそが旅だ。ゴールなんてどこにもない。ただ、終わりにむかってみんな歩いている。

その途中で、どれだけの見たこともない世界に触れられるのだろう。優しい居場所を見つけられるのだろう。

日本を出て、逆に手に入れそこなったものもあるけれど。両手ですくえるものは限られている。後悔だってするし、悩む夜だってある。

でも、自分で手に残すものを決めて歩くしか、道は開けない。

「ずっとずっと、一緒に旅をしよう」と、彼はいった。それは、照れて結婚しようと言えないかわりのプロポーズだった。

次のパスポートが終わるとき、私はどこにいるんだろう。いまはまだ、わからないけれど。二人で出発した旅は、一人仲間が加わって。旅は、この先も続いていく。


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