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境界性人格障害に美人が多いという説 〜 毒入りchocolateとCocco

Cocco「海原の人魚」
わたしなんか死ねばいいと想ってた
でもどこかでわたしだけが生きのびることだけ信じてきた

 

某精神科医の著書に「ある種の人格障害には美人が多いという伝説が精神科医の間で流布している」と書かれていた。
「美人は印象に残りやすいだけで、統計をとってみればそんなことはないだろう」と著者自身は噂について懐疑的だったが、私はこの人格障害とは境界性人格障害のことでは?とピンと来た。
私がピンと来ただけであって、実際のところはどうなのか確かめる術がないけれど、境界性人格に美人が多いと私が思う理由について書き述べる。

 境界性人格を簡単に説明すると
・見捨てられたり無視されることへの強い不安がある、依存的で猛烈な寂しがり屋
・対人関係の変動が激しくコミュニケーションが安定しない。親身になってくれる相手、例えば恋人や主治医を救世主のように崇拝したかと思うと、少しでも素っ気なくされると怒り狂ったり、自傷したり、感情が目まぐるしく変わり、自分も周囲も翻弄される。
・薬物・アルコール・セックス・万引き・過食・買い物などにのめり込みやすい。
・若い女性に多い人格障害

 ステレオタイプなイメージとしては恋人に向かって「死んでやるー!!」と言いながら手首を切るような情緒不安定な女性ということになる。
もちろん全ての境界性がそんなことするわけではないけれど、「人前で」「他人に見えるところで」自傷をするというのが大きなポイントであると思う。
自傷はリスカだけを意味するのではなく、上記したような薬物、アルコールの過剰摂取等、無謀で破滅的な様々な行為として現れる。
時にはネット上に自分のリスカ画像を載せる人もいる。
要するに自分を傷つけて同情や憐憫を得ようとする行為であり、いじらしくもいじましい。

 単純にブスがリストカットしても絵にならないという現実もあるが、自傷して同情を得ようとすることは、自分の命を人質にした脅迫であり、人質には価値がないと脅迫は成り立たない。
つまり他者の眼前で自傷するようなタイプは、自殺未遂などしながらも、本当は自分という人間には価値があると感じているはずだ。
自分に価値があるという自信がなくては脅迫など出来ない。
若い女性に多い障害というところからも、その「価値」の中に「美しさ」が含まれることが多分にあるのではないか。
彼女らの自傷には「自分は本当は愛されるべき人間なんだ」というナルシスティックな叫びを感じる。
だから自傷を親や恋人に羽交い締めで止めてもらうことで、自分の命は彼らにとって価値があり、愛されているんだという実感を得たいと思っている。
自分は醜く、愛される資格はなく、生きている価値がないと本気で思っている人間は、手首なんて他人に見える場所は切らないし、誰にも告げずに、ある日命を絶ってしまうだろう。
そのような、真に絶望し生きる力を失った人間と、境界性人格者は違う場所にいる。
境界性人格者には「私は愛されるべきなのに」という生き生きとした怒りがある。彼女らはまだ心の奥底で自分が好きなのだ。

 
90年代末、世紀末の退廃ムードの中で「眼帯」「アルビノ」「包帯」なんていう、病んだ少女のモチーフがアニメや漫画などで流行りに流行った。
痛々しく、厭世的で、儚げで、思わず憐憫の情を誘う病んだ少女たち。
彼女らが憐れまれ愛されるためには「美少女」であることが必須の条件だった。
それからメンヘラ、ヤンデレという言葉が出現し、現実の少女たちも、まるでコスプレのように「病んだ私」という記号をまとった。
その記号の1つがリストカットだったと思う。 

当時「毒入りchocolate」というカリスマ的メンヘラサイトがあった。
少女とも大人ともつかないemiluさんという美しい女性が、女子高生の制服やレースで膨らませたメイド服やゴスロリドレスを纏った写真が沢山掲載されていた。
しかしどの写真も、ドレスが血まみれだったり、トイレで血を吐いていたり、腕を包帯でぐるぐる巻きに拘束された上に、四つん這いでペットの餌を屠っていたりする。
他にも制服姿で屋上の端ギリギリに立っていたり、棺桶のような木箱に入っていたり、喪服姿で車椅子に乗っていたりと、黒一色のバックグラウンド上に掲載された写真には、いつも死の匂いがべっとりと纏わりついていた。
今ではそんなメンヘラコスプレ写真はいくらでも溢れているが、メンヘラ文化の黎明期にあってはあまりにも強烈な存在だった。
処女性を残した少女が、死という墨の中に落とされ真っ黒に染め上げられて行くような世界観。
そこに真っ赤なフォントで不穏なポエムが添えられていたりするからもう大変だ。 何が大変かというと、そして何故ここまで境界性人格者の心理について語ってきたかというと、私自身が当時「毒入りchocolate」にドハマりしていたからだ。
締め切った暗い部屋でCocco(手首が傷だらけで拒食症の歌手)を聞きながら「毒入りchocolate」を観覧していると、強烈な陶酔が起こり、閉じた恍惚感に体が沈み込んで行った。
明るい外界と切り離された、豊かな闇に包まれた自室で、まだみずみずしい手足をベッドに投げ出して、向精神薬をボリボリかじりながら、幽閉されたお姫様のように、救世主が自分を救い出してくれる夢を見ていた。
自分にはその価値があると信じていた。
「毒入りchocolate」やCoccoは私の自己投影の道具だった。
本当の自分は実は全く愛されていないわけでもなく、かと言って美しくも特別でもない、ほどほどの人間でしかなかった。
でも体の中には自分を見捨てた人に対する猛烈な怒りや、絶叫したくなるような寂しさ、もっと愛されていいはずという欲求不満が、若さのエネルギーと混ざり合って常にマグマのように煮えくり返っていた。
その感情を他人に撒き散らし続けていたら、周りの人を傷つけまくり、いつの日か本当に一人ぼっちになっていただろう。
しかし「毒チョコ」や「Cocco」にハマり「愛されず無価値な自分(本心ではそう思っていない)」を「本当は愛されるべきなのに傷つき病んでしまった美しい少女」という被害者的存在に自己投影し、毎日その自己イメージにナルシスティックに浸りきることによって、結局のところ私はめちゃくちゃ癒されたのだと思う。
なんだか自慰みたいだが、心の中のマグマを代弁してくれるような存在(見た目も美人)に自分を重ねることで、まさに自分を自分で慰め、膿を吐き出し、逆巻く嵐のような感情とギリギリで折り合いをつけて生きていたのだった。

 当時も今も「傷ついた少女」というコスプレをしてリストカットをしながら、救世主を探して右往左往している少女はたくさんいる。
境界性というのは激しく揺り動く振り子のようなもので、心から自分に絶望しているわけではなく、自分にはまだ価値があると感じていて、故に本当に容姿に恵まれていたりもするけれど、振り子が振り切れて勢いでこの世を去ってしまうことも実際にある。
しかしリストカットや激しい気分の変動などは歳をとるごとに落ち着き、40代になる頃には自然に治ってしまうことも多い。
若さや美しさを失った中年女性にリストカットは似合わないからか、若さによる衝動的なエネルギーが落ち着くからなのかはわからないが、
境界性の中でも、死に身を投げるでもなく、怒りを他者や社会にぶつけるでもなく、表現として自分の渇望や喪失を昇華出来るようなタイプは、自分以外の人も救うし、歳を取っても意外と元気に生きているんではないかと親愛を込めて思う。

 結局誰も私の救世主になってくれなかった。
でもそれは、私が愛されていないわけではなく、
私を心から愛している人であっても、他人は私を救えないのだ。
そのことに気がついた時、駄々っ子のように倒れ伏して泣くのをやめて、自分の足で立って歩く覚悟がやっと出来る。
救世主なんていないということを認めることは寂しいことだし、認めるのには長い時間がかかる。

 中年になった今でも時々、自己投影で作り上げた「愛されるべき傷ついた美しい少女である私」を懐かしく思う。
その少女は10代でみんなに惜しまれながら死ぬ運命なので、もうここにはいない。私が自分の足で立った時、私の身代わりとなって死んだのだと思う。

 人生は続く。

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