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環境適応力の話

もうすぐ新学年だ、もうすぐ新学校だ、もうすぐ新社会人だ!
この時期は、4月からの環境変化について、そんなふうにわくわくしたり不安になったりしている人が多いのではないだろうか。

楽しみに、待ち遠しく思っている人は素晴らしいと思う。
そのポジティブな気持ちをこれからもずっと持ち続けていてほしいし、日々を楽しく自信をもって過ごしていってほしいなと感じる。
一方で、やはり、「どんなところなんだろう」「自分はどんなふうになっていくのだろう」と不安に感じている人も少なからずいるように思うから、今回は環境適応力についての話を少ししてみようと思う。

というのも、筆者は実は、かなーり環境適応力が高い方なのである。
しかし、これは「私ならどこへ行っても大丈夫!」「どんな環境でも、素晴らしいものにしていく自信がある!」というふうなキラキラポジティブな気持ちからくるようなものではない。
どちらかというともっと凪いだ気持ちであり、「受け流しスキル」のようなものであると自分では感じている。

どういうことかというと。
例えば今後、新しい場所で上手くできないことがあったり、嫌な人に遭遇したりすることがあったとしても、「だからなんぞや」という気持ちで過ごすことができるということである。
つまり、「誰が来ても勝てる!大丈夫!」ではなく、「誰が来ても仕方がない。大丈夫」ということなのである。

言い換えるとこれは、「期待をしない」という一種の諦めに近い。
そして、他人やまわりの環境にあれこれ望むのではなく、今自分の手の届く範囲にあるもので、楽しんだり喜んだりするということである。

例えば、新しい環境で新しい人と知り合うとする。
自分は仲良くなろうと頑張るけれど、なかなか上手くいかず、だんだん相手が嫌な人であるように見えてきて、しんどくなって、結局少し微妙な雰囲気の関係になってしまって、たまに孤独感や無力感を感じてしまうとする。

このとき、キラッキラの未来を夢見て臨んでいた場合は、「ああ、私にコミュ力がないせいで・・・」「私には人間としての魅力がなく、それを取り繕う能力もないから・・・」みたいなふうに自分を責めてしまうことがある。
けれど、そもそも「まあ色んな人がいるし」「良い人悪い人に関係なく、相性の問題があるからなあ」くらいのスタンスでいると、良い関係を築けなかったとしてもそこまで傷付かないし、落胆しない。
そして、「この環境でこの人と仲良くできなくても、私には他にすること・できることがあるしなあ」「この環境以外では、私と気が合う人もどこかにはいるだろうし」と気持ちを切り替えることができるのだ。

そんなふうに、最初から「駄目でも仕方ない」「そういうこともある」というふうに、フラットな感情で、あまり期待せずに過ごしていると、その先の結果で感情を強く揺さぶられたり、しんどくなったりすることが少ないのだ。

そんなのつまらないと思うだろうか?
子供のうちは特に、大人から「もっと期待していこ!君の未来は輝かしい!」だとか「無理そうなことに手を伸ばすから価値があるんだ!」だとか言われることが多いと思う。
その理屈ももちろんわかるし、それで納得してそう動けるならそれに越したことはないかもしれない。
けれど、それでしんどくなってしまっては元も子もないと、私は思うのだ。

大人は子供に期待してしまう。
親は、先生は、先輩は、子供が死んだ目をしているのを嫌がるし、子供には希望を胸に抱いていてほしいと望んでしまう。願ってしまう。
だから「大丈夫!きっとうまくいく!」みたいな言葉をかけてくるのだと思うし、その気持ちも正直わからなくはない。

でも、誰もかれもがそんなキラキラした希望の中で生きていけるわけではないし、天国を夢見る人が地獄に叩き落されたときのショックは、そもそも期待していなかった人の比ではないと思う。
そうやってキラキラ生きていける人もいれば、そうでない人もいる。そのことは、実際に、間違いないことであるのだ。

だから、もし自身のことを、「私はキラキラに向いていない」と思うのであれば、無理に期待したり、絶対に頑張るんだと意気込む必要はないように思う。
初めての環境で初めての体験なのだから、すんなりできる方がむしろ不思議ではないだろうか?できなくても当然だと思うし、駄目で元々なのではないだろうか。

だから、期待しない。高望みしない。

ただ、これはあくまで、「新しい環境に対して」ということである。
新しい環境はきっと素晴らしいものに違いない、そこで私はとても楽しい思いをするに違いない!という期待はなくていい。
けれど、もしできるのであれば、少しだけ、ほんのすこーしだけ、「自分に対する期待」は捨てないでいてほしいなと思う。

例えば、新しい環境は、煮えたぎる地獄かもしれない。
まあ、そんなの絶対嫌だけど、可能性としてゼロではない。
だからそこは、期待しない。そういう環境がこの世にはあるし、それは世界に1つだけとかではなく、まあまあの数存在するものだし、だから自分が運悪くそこにあたってしまう可能性も、残念ながらある。
それは仕方のないことではあるのだけれど、でも、そこで、少しだけ自分に期待してみる。

もしかして私、地獄の業火でご飯炊いたりできる・・・?

あれ、私、そこが地獄だってわかった瞬間、2時間で逃げ出せる瞬発力があったりしない・・・?

まあ、馬鹿みたいな期待ではある。
でも、「そこが地獄じゃない可能性」には期待しないけれど、「地獄でも案外生活できる自分」や「地獄から華麗に生還できる自分」はイメージしてみてもいいのではないだろうか。
最初から、「まあそういうこともあるわね」というフラットなスタンスでいれば、大抵の出来事に対して冷静でいることができる。
そして、重要なのは、「嫌なら環境を変えてもいい」という意識だ。

転校してもいいし、不登校になってもいいし、転職してもいいし、ニートになってもいい。
自分がしんどくならないこと以上に重要なことは、この世に存在しない。

まあ、人生で一度くらいは、盛大に期待してとんでもねえ挫折を味わうのも悪くないかなとは思う。1つの経験としてね。
様々な経験は、人生にコクと深みを与えてくれるし、豊かな人生になると思うから。
でも、その「人生で一度くらい」が、「もう人生をやめたくなってしまうほどしんどいこと」である必要はないと思う。
そこまでしんどいことからは、逃げていいし、辞めていい。

だから、「期待しないことで最低限、自分の心を守る」ことはとても大切なことだと思うし、それと同じくらいに、「ヤバい環境からは逃げ出すことができる自分」に期待することも重要だと思うのだ。

筆者の生きていく上でのスタンスは、おおよそこんなような感じだ。
「はい、来てしまいました、地獄。まず地獄の鬼を炙って肴にします。そしたら地獄の業火で日本酒をアチアチにして、熱燗で鬼肉を流し込もう!想像するだけで不味そうで草。硬そうだよねなんか」
「え?私も炙られそう?やば、服の裾もう燃えてんじゃん!水、水!え?水ない?えーやばすぎなんですけど、こんなところ居てられるか!俺は外に出るぞ!」
「こうして私は見事に死亡フラグを立て、華麗なるフラグ回収の後、無事死亡しました。リスポーン。次は強くてニューゲームです。ああー地獄ルート回避できっかなあ」

このくらい虚無のふざけかたをして生きていいと、私は思います。
真面目な人ほど割を食う時代だからね。誠実に期待して、真面目に努力して、でもそれが踏みにじられてしまうことも、あるから。残念ながらあるから。
だから、なるべく苦しくないように、あまり気負わず、ほどほどに、よしなに。
やっていければいいのではないでしょうか。

そういうわけで、4月から環境が変わる皆さま方は、全然頑張らず、頑張っていただきたいです。いのちだいじに。

ではでは、今回はこのへんで。




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