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悟りと諦め

ここ数年間で、私の精神は数十年分くらい老け込んだ気がする。
気がするだけで、実際は精神の年齢なんて測りようがないのだけれど。

何故そんなふうに感じたのかというと、なんというか、自身の「主観性」のようなものが年々薄れてきている気がするなあと思ったからだ。
これは、「自分の感情を押し殺して生きている」だとか、「自分の気持ちに蓋をして、見ないようにして生きている」だとかそういうネガティブなニュアンスではない。
むしろ、どちらかというと、「自分の中のうるさい声が減って、生きやすくなったなあ」というポジティブな感覚である。

例えば、嫌だなあと感じるところがある人が目の前にいたとして。
昔の私なら、「どうしてこんなことするんだろう、むかつく」「なんでこんなふうにしかできないの?おかしいよ」というように、怒りや悲しみや虚しさなどの感情が湧き出ていた。
しかし、最近は、同じ状況になったとしても「ああ、この人はこういう人なんだな」というふうに、自身の感情をあまり介さずに、客観的に物事を見るようになったのだ。

どうしてこんな変化が起こったのか?
悟りでも開いたのだろうか、と疑問に感じたが、おそらくこれは悟りではなく諦めに近い。
私は多分、真面目に頑張って生きてきて、そして少し疲れて、「ああ、まあ、こういうものね」というところに着地したのだと思う。

どうして?と思うくらい強い言葉を使う人がいた。その人は部下にパワハラをするようになって、最終的には部下を退職まで追い込んだ。
昔の私なら、「最低!なんでこんなことができるの!」って怒りを感じただろうし、「この野郎とっちめてやる!」みたいな気持ちも湧いて出たかもしれない。
でも、今の私は、「うーん今まで抑圧されて生きてきたから、穏やかな環境に来て無意識に爆発してしまったのかな?」「きっとこれは不安からくる攻撃性だなあ、環境に慣れて知識が増えていけば、落ち着くかもしれない」と穏やかな気持ちで眺めることができる。(許せるという意味ではない。)

自分は神だと言い張って、子供をあの手この手でコントロールしようとした人がいた。その人はうつ病みたいになりかけた子供をバシバシと叩いて人格矯正しようとし、子供の精神を壊しそうになった。
昔の私なら、「最低、毒親、もう嫌だ、いなくなってよ」って泣き喚きたくなっただろうし、「遠くまで逃げる!一生会わない!お前は他人だ!」って絶叫したかもしれない。
でも、今の私は、「この人がこの人なりに頑張った結果、こうなってしまったんだなあ」「悪気はないんだろうけど、ま、相性ってあるからね」と穏やかに納得することができる。(許せるという意味ではない。)

こんなふうに、今までは主観で「〇〇ができない/〇〇してしまうなんて、この人はおかしい!」って怒ったり泣いたりして、「どうやったらこの人を普通の、正しい状態にできるんだろう」なんて悩んだりしていた。
それが今では、「ああ、この人はこういう部分がおかしい人なんだな」という客観的な意見に着地し、それ以上感情を波立たせることがなくなったのだ。

誰にでも「おかしい」部分がある、ということに、本当の意味で納得できるようになったからかもしれない。
私は人の感情の機微にとても敏感だと思うし、その結果、対人関係は比較的に穏やかな状態を維持することができると思う。そういう(ある意味で温度の高くない)やりとりが、他の人よりも得意なのだ。
一方で、もちろんあまり得意ではないこともある。例えば、電卓を叩いているのに計算を間違えたり、パソコンから5枚印刷をかけたのに何故か全部白紙でプリンターから出てきたり。
そういう、私のできないことについても、それが得意な人からしたら「〇〇ができない/〇〇してしまうなんて、この人はおかしい!」というふうに思えるのだろう。

誰でもみんな、どこかしらはおかしい。
そして、どこかしらは、おかしくない。
凶悪な殺人犯でも、職場ではものすごく有能で、マルチタスクが得意で、数値管理もデータ処理もシステム構築も誰よりも上手くできる、ということがあるかもしれない。
まわりからドン引きされるくらい運動が苦手で、日常生活にすらちょっと支障が出るレベルで身体のコントロールが苦手な人でも、歌を歌えばプロも顔負けなくらいの美声かもしれない。

そして、おかしくない部分、つまりその人の得意な分野が周りから見えなかったとしても。あるいは、自分自身で、「できないことはたくさんあるけど、でも別に得意なことなんてないし」と思っていたとしても。
でも、それは、「見つかっていないだけ」の可能性がある。
見たことがないものを、「ない」と断定するのは本来おかしな話だ。
それがそこにないことを、何故証明できる?

そして、仮にそれが本当に「ない」としても、それは、「得意分野がないなら、じゃあ苦手分野があるのはおかしいね」ということにはならないのだ。
何かがあるにしろないにしろ、それはただの事実にすぎない。
事実に向かって怒ったり悲しんだり喚いたりしても、それはそれで意味があるかもしれないけれど、でも別に事実は変わったりはしない。

これは、「自分/他人のおかしい部分受け入れて許せ」という話ではないし、「自分/他人をおかしいと感じる自分を許すな」という話でもない。
ただ、主観と客観は全く別物だという話だ。
私は何に怒ってもいいし、悲しんでもいいし、喜んでも楽しんでもいい。でも、それは、「世界の方が私の感情に合わせて変化しろ」という願望の実現には繋がらないということだ。
「世界や他人がどうあるか」という事実と、「自分の感情」というものは、お互い干渉はするけれど、侵略はしない。誰かに自分の感情を捻じ曲げられるのが良くないことであるのと同じように、自分の感情で何かを捻じ曲げるのもまた、良くないことなのだ。

海の水分が蒸発して、雲になって雨を降らせる。瞳孔の開いてるおかしなクレーマーが、受付で4時間ずっとキレ続ける。気温が低くて凍ってしまったアスファルトは、滑りやすくて危ない。何度説明されても理解ができなくて、仕事にならない。夏は暑いし、冬は寒い。他人を攻撃することで、気持ちよくなれる人がいる。悲しくても悔しくても、お腹は空く。
これらのことは、客観的に見て、私の中ではほとんど同列なのである。

それらはある意味で「仕方がない」ことであるし、それと同時に、「だから何?」ということでもあるのだ。
それらはただの現象で、事実だ。自分がそれらに対してどういう感情や感想を抱くも自由だが、自分が「やめてよ!」って思っても、それらはなくなったりはしない。どうにもできないことなのだ。

仕方がない、どうにもできない、というと、やはりネガティブなニュアンスに聞こえてしまうかもしれない。
けれど、これは決して悪い意味で思っているわけではない。
これは、裏を返せば、誰かに「そんなふうに考えるのはやめなさい!」と自分を矯正(強制)される恐れもないということだ。
自分は自分で、誰かは誰かだ。関わり合って交わり合うことがあっても、沁み込んで組み替えることはできない。誰も、誰のことも。

そう考えると、自然と、「自分は尊い」「他人は尊い」という気持ちに繋がっていく。
誰にも変えることができない、そして代えることもできない、ただ1つの、事実としての人格であり、人間だ。世界に1つしか、ないのだ。

そんなふうに、最近は気に入らない他人や出来事のことも、「ま、こんなものね」と客観的に見て気持ちを着地させることができるようになった。
何かを変えたいのならば、変えるのは他人そのものではなく、環境や関わり方のほうだ。事象は、事実は、変えられない。
そう思うと、昔に比べると随分、気持ちが楽になったような気がするのだ。

どちらがよい、とか、こういうふうなのが正しい、とかいう話ではなく、これもただの「事実」として、私の主観性は、ここ数年でどんどん薄まってきている。今後どうなるかはわからない。
まあ、なるべく。
私があまりしんどくならない道が良いな、と思う。

今回はそんな話でした。
ではでは、今回はこのへんで。


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