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「リストカットとケアにハームリダクションの視点を:リスカ・薬物は長期的には自殺のトリガーでも短期的には自己治療・癒しを与えている」=松本俊彦医師

ちょっと自分のカキコと似たり寄ったりの標題になってしまうのだが、やはりこのメッセージは重要だと思っているので、第二弾は専門家達の発信してくれたYouTubeチャンネルの紹介をしながら話題提供をしたい。
リストカットのきずときずあとについてこんなに丁寧に向き合っておられる整形外科医がいらっしゃるのをYouTubeの縁で知ることが出来た。
精神科業界の「マツシュン」こと松本俊彦医師の出ているチャンネルでの対話を拝見し、心から声援を送りたくなる場面とメッセージがいくつもある。

ハモの骨斬りのような腕を何人も見てきた

リスカとODは私の周囲にもゴロゴロ転がっていた。とりわけ、私が依存症治療につながった15年前の「依存症専門」といわれる精神科はダルクが作ったようなアパリクリニックと薬物だといの一番に警察へ通報されちゃう都立松沢病院、小平の国立精神医療研究センター、あとは国立の久里浜、サイタマといったあたり。私立ではアルコールでは長谷川病院や足立病院、井の頭病院などはあってもフツウの病院ではまず診てもらえない。
治療方法や有用なプログラムが開発されているわけではなかった時代では、マジで半年もデイケアに通院していたらOD死などは片手で済まない数の「仲間」が死んでいった。自分流の処方じゃないと医者を赦せないような性格の持ち主で一日13錠もの向精神薬を飲みながら病院を点々としてきたあげく、市販のカフェインタブレットが手放せないと語っていた自称ミュージシャンの「仲間」はたった半日デイケアで一緒に過ごして音楽の話を少し交わし、その夜ナイトクラブで心肺停止になってあっけなく他界してしまった。たいがい誰に語っているのか分からない独り言のように話をし、目をあわせて話をすることもなければ趣味の話にしても話が噛み合うことなんて一回もない。ただ一方的に自分の世界観や「ああ今日はこんなにやらなきゃならないことが一杯ある」という強迫と思い込みの連続だった。そうでもして忙しくしていないとならない何かが突き動かして生き急がせているのかもしれない。
ある「仲間」は物静かな人で色白な人で自分でもシロと言うぐらいだった。ハモの骨斬りのような精密な腕の傷跡はこの人の苦悩と苦しみの歴史をなによりも雄弁に物語っているし、傷付きやすいだろうよと納得できるぐらいに優しさと繊細さに溢れた人だった。その人とコロナ禍の中、自助会のオンライン・ミーティングで再会する幸運を得たわけだが、1000キロも離れた北の大地でしっかりと回復者生活をエンジョイしておられた。悲壮なる覚悟で転地したり離婚しててでも治療と回復の環境をつくるってもの凄くこの手の病気の場合必要だ。あれもタイヘン、これもタイヘンと虻蜂取らずになって結局家族や本人が命を落とすような場面に何度も立ち会ってみると、生きているというセリフさえ傲慢で生かされ活かされているのだということを痛感させられる。

松本俊彦医師は依存症者にとっても、自殺念慮に苦しむ人達にとっても希望を与えてくれる希有な存在だ。そして今回、精神科以外の現場でここまで生きづらさと共にある当事者と最前線で向き合ってくれているお医者さんたちがあることを知ることができた。

「きずときずあとのクリニック」
そのものずばりな整形外科があったり、リストカットを含む傷跡のケアを診る美容整形外科の教室をもつ日本医科大学の事例などは自分にとっても目からウロコの話題が連続した。

その上で、タテワリ診療になりがちな、とりわけ大学の医学部でカリキュラムにさえされていない分野=依存症に関する精神科=の専門医が面と向って話をする機会が出来るようになったという意味では、YouTubeなどの新しいメディアの発達はウエルカムだと言わざるを得ない。(時にはなんちゃって科学?というデマゴギーも含まれることは重々承知であるとしても)プラスの側面をこそ大事にしたい。

「こういう切り方をすればもっと傷跡キレイにできるよ」って所まで伝えてあげたらどうでしょう?(松本医師)


席上仰天のメッセージの一つがこれだ。リスカなんてやるもんじゃない、という言葉が出てくるのが当り前だと思ってすまなそうに腕を差し出している当事者が大半。
助言一つだって、リスカの当事者には自己肯定感がアガルし自分の行為を非難するのではない先生が治療をしてくれている、という気持ちにさせてくれることが何よりも重要。
「ハームリダクション」の精神が骨まで入っている医者が離す話題は命の重みがある。絶命しない一歩手前で踏みとどまっているのがリスカやODなのだとすれば、覚悟の自殺のような行動の裏側にある感情をこそ大切にしてあげたいという姿勢。どこまでど真ん中に当事者を置いてくれているのだろう。当事者性とはそういうことだ。部外者が当事者と何割か共有したことがあるからと自分のモノサシ剥き出しで物言いをすることは当事者性とは一切相容れない世界=分断以外のなにものでもない。
つまり「伴走者」となってくれている人達の差し出されている手を実感できる場面であるからだ。アウトリーチは「何かお困りごとはありませんか」としゃしゃり出てくるようなものでは絶対に失敗する。





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