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ミクロな人模様を描く『青のフラッグ』感想

「あなたの友人〇〇さんを説明してください」

そう言われたあなたはどう説明するだろうか?容姿から説明するか、性格から説明するか。もしかしたら、自分との関係性から説明するかもしれないし、主観的な感想しか言わない人もいるかもしれない。

「〇〇さんは△△という人ですね」

あなたは「△△」の部分に何を入れたか?自分なりに分かりやすく、一生懸命考えるだろう。しかし、一生懸命になればなるほど、人は自分の傲慢さ、暴力性を見失う。

その行為は、その人を「△△」という枠に押し込めることになるからだ。

別にその行為自体を非難したいわけではない。日常生活を営む中でそれは非常に効率的であり、人間関係を良好にさせる。ただ、本稿で言いたいのは、その傲慢さと暴力性を自覚して欲しいということだ。

『青のフラッグ』を読んで思ったこと、それは他人のことなんて絶対に分からないし、ましてや勝手に「△△」という枠に押し込めることは愚かな行為であるということだ。

『青のフラッグ』はKAITOによる青春マンガである。『少年ジャンプ+』(集英社)にて、2017年2月1日から2020年4月8日まで連載された。

~あらすじ~
高校三年生の主人公・一ノ瀬太一は、人付き合いが苦手で友達が少なく、陰気な高校生活を送っていた。親友である三田桃真はスポーツ万能で人望にも恵まれ、そんな彼とも疎遠になっていた。そんな2人の間に現れた空勢二葉は、桃真に好意を寄せており、桃真の親友と見込んだ太一に協力を促す。

一見するとラブコメ、もしくは少女漫画チックな設定なのだが、物語は大きく曲がりくねった展開を見せる。そう、物語の核は、太一と桃真と二葉の恋模様ではなく、彼ら、いや、彼らを含めた登場人物たちの人模様なのだ。この漫画は、登場人物をキャラとして「△△」という枠に押し込めず、その人を描き切る努力を決して怠っていない。だから、面白かった。

例えば、この物語のターニングポイントとなった、桃真の太一に対する愛の告白。ここにも、彼ら二人の間に何があったのかを読み手である私たちに想像を促す。どうして、桃真は太一に好意を寄せるようになったのか、それは幼馴染の経験かもしれないし、桃真が抱える家庭問題によるものなのかもしれない。作者は決定的な理由を物語のなかで示そうとはしなかった。そこに、桃真を「ゲイ」だと簡単に咀嚼させない工夫が垣間見えるし、私たちは桃真という一人の人間に焦点を当てて考えることができる。

また、特に印象に残ったのが八木原 舞美マミのエピソードだ。桃真に好意を寄せるマミはそれが不可能と悟ると今度は太一に歩み寄る。この時、私を含めたほとんどの読者がマミは今度は太一に狙いを定めたのか、いや、もしかしたら桃真に近づくための戦術なのか、と勘繰ったことだろう。

しかし、読み進めると、マミがそんなものを基準に行動しているわけではないと私たちは知り、自分の浅はかさを知るのである。第32話のマミの一連のセリフは、非常に説得力があるものとなっている。

このように、漫画の登場人物でさえ私たちは「△△」という枠組みに押し込めて考える。しかし、桃真やマミのエピソードで私たちは、そのことの傲慢さ、暴力性に気づくのだ。たしかに、そういった方法は効率的で楽だ。32話しにて伊達 真澄もそういった考え方は「知恵」だとしている。

しかし、そのようにして考えることで傷つく人は確実に存在する。マミがそうであったように。一方、桃真はどうであったか。彼の周りには、彼を彼として考えてくれる友人がたくさんいた。第44話の討論がそうであるように。ここでも、明確な答えを出すことはできなかった。しかし、それでも考えたことは残る。桃真を桃真として、決して「ゲイ」という枠組みに押さえつけることなく。桃真だけではない。この漫画は登場人物をミクロに捉えることに成功している。だから、物語が透明で、優しいと感じるのだ。

効率性が重視される世界。私たちは、多くのモノを獲得した。しかし、そこからはみ出ているもの、犠牲は確実に存在する。ここで誰がそれなのか、という話がしたいのではない。それについて考えるために、この漫画がそうしたように、面倒に感じられるし、とても遠回りに感じられるかもしれない。でも、一人一人、ミクロな視点を持つことは大切だ。そうすることが、他者を理解する第一歩であるのではないか。

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