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vol.12 確かな技術をデザインで伝える 【KITOTE】

経営者とブランディングデザイナー西澤明洋が対談し、ブランドの成長ストーリーを振り返りお届けするシリーズ「BRAND STORY」。

執筆・編集 加藤孝司
撮影 トヤマタクロウ

和歌山県は3/4の面積を山が占め、古くから林業が栄え、近畿圏の建具製造を担ってきた歴史を持つ。中井産業は和歌山市に拠点を持つ総合木工メーカー。職人が支える技で障子や扉など、天然木を中心とした建具を手がけ、早くから機械化を進めてきたことにより量産化にも対応してきた。近年、住まいにおける和室の減少と共に障子の需要が落ち込み、それを作る職人自体の数も減少しているという。山積する課題を前にブランディングに取り組んだ経緯を、2011年より同社の代表取締役社長を務める尾﨑義明氏と西澤明洋が語り合った。

天然木での職人による建具作り

ーー1935年創業だそうですが、御社の創業の経緯を教えてください。

尾﨑:和歌山は紀州、かつては木の国といわれましたが、紀伊半島全体が森林が豊かな土地です。弊社がある和歌山市ですと、吉野から市の中心を流れる紀ノ川を使い木材を海に運んだことから、この辺りは木材の集積地となっていました。江戸時代にはすでに建具業者があったという文献も残っています。大阪などの大消費地にも近く、弊社も設立当初は近隣の京都などに作ったものを出荷していたそうです。先代からは建具を関西圏に出荷するために事業拡大をしていきました。

ーー尾﨑社長は大手建材メーカーの営業マンから木製建具を手がける中井産業のものづくりに感銘を受けこの世界に入られたそうですが、社長自身のご出身はどちらですか?

尾﨑:私の出身はお隣大阪の堺市になります。大学を卒業後、大阪で就職したのが大手建材メーカーでした。偶然和歌山市に配属になり、弊社のアルミ部門と当時の営業先として出合いました。その時の私の仕事を現会長に気に入ってくださり、後継者として弊社に来ないかとお声がけいただきました。それが2004年のことです。

代表取締役社長 尾﨑義明氏
1971年大阪府堺市生まれ。大学卒業後、大手建材メーカートステム入社。営業職として和歌山営業所に配属になったことがきっかけで中井産業と出合う。2004年、中井産業入社。2011年より現職。

ーー最初に中井産業の仕事を見た時にどのように思われましたか?

尾﨑:当時私は営業マンとして多くの建材メーカーとお付き合いがありました。大量生産の時代で、ドアを作るにしても木目を印刷した塩ビシートをベニヤに貼ってある面材のいわば木目のフェイクが多く流通していました。もちろん無垢材を使うことの難しさも理解していましたが、自分の仕事として本物の木ではない木目調シートの「中級品」を売ることの限界も感じていた時でした。そんな中、中井産業が作る建具と出合い無垢材でつくる建具であるのに、その精度の高さに驚きました。

西澤:尾﨑さんが入社された当時から天然木の無垢材でやられていたんですか?

尾﨑:はい。ほとんどの製品を無垢材で作っていました。建具業界の多くの会社が骨組みに合板を貼ったフラッシュドアの方が簡単で儲かるとそちらにシフトしていく中、先代である弊社会長は難しいことを極めていれば簡単なことは直ぐに出来るという考えを持っていて、「難しい方でシステム化したり技術を伸ばしていけば、いずれ業界内でも勝てる」が口癖の人でした。

西澤:まさに先見の明のあるお言葉ですね。素晴らしい。

尾﨑:はい。しかも徒弟制度に近い職人の世界でありながらものづくりをマニュアル化し、パートの方や女性にも技術を身につけてもらい製品を組み立てることが出来る仕組みを作りました。その上で職人の技術を磨くことと、機械化の両方を同時に進めていたことも私には魅力的でした。

西澤:先代はもともと職人のご出身だったんですか?

尾﨑:いや、もともとは私と同じで営業畑出身でした。だからこそ職人技に固執せずにいち早く機械化にも取り組めたのだと思います。

ーーなるほど。その当時どんなところに感銘を受けたのかもう少し詳しく教えてください。

尾﨑:弊社では30年以上前から機械を導入しているのですが、当時は林業も盛んで、建具職人も今より多くおり、周りからは勢いでそんな高価な機械を導入して本当にペイできるのかと訝しがられたそうです。ですが今から考えれば、あの当時先行投資をして機械化したからこそ今も生き残ることが出来ています。先代の社長は進んで情報を取りに行く気質があり、トレンドなど時代の変化にも敏感に対応出来ていたことも大きいです。

ーーそれは具体的にはどんなことですか?

尾﨑:この業界だけではありませんが、日本の経済や建設事業が活発な時代には、それなりの品質のものを大量生産する時代があり、機械化することで対応してきました。業界的に翳りが見え始めて大量生産時代が終わった後には、価格競争で深追いすることを選択することなく質実なものづくりで変化をしのぎながら対応してきたところです。

課題となったつくり手の育成

ーーそんな中、尾﨑さんが社長に就任されたのは何年ですか?

入社7年後の2011年です。

ーー長い歴史がある中井産業さんがなぜブランディングだったのでしょうか?日本人の生活様式の変化、衰退する林業と建具業界、良いものが作れなくなることへの危惧といった背景があったとお聞きしました。そこにはどのような課題と問題意識をお持ちだったのでしょうか?

尾﨑:おっしゃっていただいたこと以外に、ひとつには職人の高齢化があります。和歌山県のこの業界の平均年齢は実に70を超えていると言われています。

西澤:ものすごい高齢化ですね。

尾﨑:そうなんです。高齢化もですが、営業マン時代に数千軒を飛び込み営業でまわった時に感じたのは、このままではこの時代にこの業界に新しい人は入ってこないという苦しい現実でした。それと機械設備メーカーも新規には作らないし、メンテナンスもできない。新規参入もゼロであるということが分かりました。だからこそ天然木の無垢材、職人の技術、木組の「本物」であれば生き残ることが出来ると確信をもっていました。そのためにも必要なのが、人材確保と人材育成、技術の継承だと私自身考えました。それは今時点でもそうなのですが、それを積み重ねていくことが当時も今も課題であり目標となっています。

尾﨑:当社に必要なのはブランディングだと考え、エイトさんにブランディングを依頼するまでにも自社でオリジナルブランドを作るなど努力はしてきました。同業の建具屋さんの下請けという立ち位置の中で生き残るすべを模索していました。

西澤:同業からの下請け、多段階流通という部分についてもう少し教えていただけますか?

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この続きは、エイトブランディングデザインWEBサイトで全文無料公開中。『KITOTE[ 前編 ] 確かな技術をデザインで伝える』へ

執筆・編集

加藤孝司  Takashi Kato
デザインジャーナリスト/ フォトグラファー
1965年東京生まれ。デザイン、ライフスタイル、アートなどを横断的に探求、執筆。2005年よりはじめたweblog『FORM_story of design』では、デザイン、建築、映画や哲学など、独自の視点から幅広く論考。休日は愛猫ジャスパー(ブリティッシュショートヘアの男の子)とともにすごすことを楽しみにしている。http://form-design.jugem.jp/

撮影

トヤマタクロウ
1988年生まれ。写真集や個展での作品発表を中心に、クライアントワークにおいても幅広く活動。http://takurohtoyama.tumblr.com/



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