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ガラス越しの美容師(小説)

ゆらゆらと歩きながら、ガラス張りの美容院を覗く。
何気なく見ているだけの通行人を装っているけど、耳には自分の心臓の音しか入ってこない。

(あっ)

一拍だけ大きな鼓動が全身を脈打つ。
ガラスの向こうでは、ハイトーンのショートやボブの美容師たちが弾けた笑顔を振りまいている。その中に、ひとりだけ艶やかで柔らかいマロン色のロングヘアの美容師がいる。優しく微笑みながらお客さんの髪を解くその姿は、誰よりも美しい。

(あの人だ)

一目でわかった。
あの人はわたしの好きな人の元カノだ。

わたしの好きな人は、「わたしのこと好き?」と3回聞いてやっとうなずく。
そんな彼が自ら「ベタ惚れだった」と話していたのがあの美容師だ。

本人は気づいていないけど、彼は彼女と別れて2年半経った今も、わたしによく彼女と暮らしていたときの話をする。
彼の家で出てくるマグカップは元カノと使っていたやつだし、彼の使いづらそうな財布は元カノからのプレゼントだ。
わたしがそれらを新調させる権利は、出会って2年、彼の家に行くようになって1年半経った今もまだない。

先週末に会ったとき、彼はついに元カノの職場の話をしていた。

それまでも彼女のいろんな話を聞かされていたわたしは、職場にいるその人を一瞬で見つけてしまった。

鼓動を落ち着かせながら帰宅したわたしは、しばらくあの美容師のことしか考えられなかった。
おもむろに美容院のサイトを検索すると、光に透ける長い髪の美容師が微笑んでいる。その写真の下にはSNSのリンクが貼ってあった。

静かになっていた心臓がまた大きな音を立てる。

8,625人のフォロワーがいるそのアカウントには、彼女が仕上げたスタイリングの数々やスタイリングの方法が載っていた。時折写り込む手が荒れている。投稿についたコメントにはひとつひとつ丁寧に返信している。
そこには悔しいなんて気持ちが湧く間もないほどに、美しさと努力、信念が写っていた。

いつしか好きな人に言われた言葉を思い出す。

「お前はどうなりたいの?」

わたしは一度も上手く答えられたことがない。
でも、彼女はこんな質問をさせる隙さえ与えなかった人だろう。

その美容師のアカウントをフォローはしなかった。でも、髪を洗うときは彼女の投稿を思い出し、予洗いを1分以上したあと、シャンプーを丁寧に泡立て、指の腹を使って優しく洗う。

肩の上で右へ左へと行き場なく踊る毛先に、買ったばかりのトリートメントをつけながら考える。

この髪がストンと鎖骨にかかるまで伸びるころ、わたしも誰かから愛されるわたしになれるだろうか。

少なくとも、わたしは今日のわたしより、その日のわたしを愛せるだろう。そんなわたしなら、きっと誰かから愛されることもできるだろう。


美しい髪はわたしのためにある。

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