織田信長と津島・熱田衆

・今日は、ご無沙汰をばしております。
仕事と趣味の両立が難しく、難儀して
おります。
さて、忍者ものもいいのですが、やはり
戦国大名の事も書いた方が面白いかと思い、
戦国大名と経済の事を書いて見ようと思います。
実はこのネタ、もとはinspirationに挙げた
ヤツでしたが、知り合いに
「インスタじゃもったいない」
「ブログに上げるべき」と言われ
考えた末に、挙げることにしました。
今回は「織田家」とそれを支えた
「津島衆」と「熱田衆」を取り上げます。

・織田家と南朝と寺社勢力
・さて、まずは「織田家」の「出自」に
ついて。
「織田家」は「尾張守護代」として、
「清須(清須市)」、「岩倉(岩倉市)」
の「二拠点」を中心に、「斯波氏」に変わり
「実力者」として「君臨」していた。
しかし、それならば「武家」の「名族」か?
と思いきや、実は「織田氏」の「先祖」は
「越前国(福井東部)」の「織田剣神社」
(越前市)の「社家(神官)」なのだ。
さて、「織田氏」の「祖」は「平資盛」の
「子」の「親真」の孫とされているが、
此れは、「織田氏」が「武家」になった時、
「箔」を付けるために、「平氏」の
「絶家」の「資盛流」に繋げたのだ。
さて、そしたら「何か?」となると、
もう一つの「系譜」を見ると、其処には
「忌部流」とあり、「親真」は「忌部親真」と
なっているため、「忌部氏」が、「正解」だろう。
と、言うのも「古代」の「氏姓」は
一つの「職業」を「表し」、「氏」は
「家族集団」を表し「一族の職」を
表すのだ。
たとえば「服部」、「錦織」、「木部」、
「伴部」、「忌部(斎部)」、「中臣」、
「物部」、「土師」、「矢部」、「矢作」、
「弓削」、「膳部」、「大饗」、「饗部」、「負靭」、「刑部」、「舎人」、「海部」、「須恵部」、「麻績」、「渡部」、「犬飼」、「鳥飼」、
「猪飼」、「馬飼」、「鵜飼」、「鷹司」など
「天皇家」に「仕え」、「護衛」や「身の回り」の
「世話」。
更に、「調度品」を造る「職人」や「商人」を
「統率」するため、「氏族」としたのだ。
「伴部」は、「大伴」とも言い、
「天皇の近衛師団」としての一族。
「物部」は、「モノ」とは「物質」だけでなく
「神霊」や「物の怪(妖怪)」を含めた
「モノ」で、「モノ(全ての物)」を
司り、「軍事」、「刑事」、「呪術」、「戸籍」
をつかさどる、謂わば「古代の司法・軍事官」
であった。
では、「いんべ」とは?
「忌部・斎部」とは「斎」とは、「厳粛な祭祀」
「忌む」とは、「身を清め祭事を司る」事で
つまり「司祭」で「シャーマン」である。
「忌部氏」は、「大和(奈良)」を中心で
「阿波(徳島)」、「出雲(島根)」、
「紀伊(和歌山)」、「讃岐(香川)」を
「拠点」にしていたのだ。
実は「此れ」だと、「織田氏」の出自に
「合点」が行く。
「神社」は、「天皇家」と繋がり、
「氏族・土地の神」を祀る「司祭」なので、
その「神官」も「司祭氏族」でなくては、
「祭事儀礼」ができない。
更に、「平氏」は「平安初期」からの
「軍事貴族」である。
それが「いきなり祭祀」は「無理」だ。
(平家の落人なら有り得るが・・・)
「忌部」なら、「古くから」の「祭祀一族」で、
「社家」としても「妥当」だ。
そして「織田氏」は、「織田剣神社」の
「荘園」の「織田荘」の「荘家」になったのだ。
長々と「古代史」で申し訳ないが、
「歴史」は「人間一万年の大河」の「流れ」で
「歴史法則」の「因果」によって、
「作られる」。
そのため、「中世」を知るには「古代史」の
「背景」を以て「知らなければならない」。
そして「それ」が、「織田氏」の「経済性」に
「繋がる」のだ。
さて、「織田氏」は「藤原氏」も「名乗り」、
「蒲生氏」と繋がりを持ち、「蒲生氏」は
「藤原氏秀郷流」であり、「織田氏」は、
「藤氏利仁流」を名乗ってるが、
「地理的」に「近江国(滋賀)」に
「本拠」をする「秀郷流」であろう。
また、「平氏流」にも「伊賀平氏流」の
「富田基度」の「娘」を「もらってる」ので、
「三つ」とも、「関わり」があるのだ。
(当時は「分家」は「本家」の「氏族」を
名乗れなかったので、系図を他に作っていた。
そこで、「母方」や「親族」の「伝承」や
「昔話」を「作り変えて」系図に載せたのだ。
然し伝承を全て信じる事はできないが
ある程度の「補足」にはなる。)
さて、「織田氏」は「神官」として、
「織田剣神社」に仕える傍ら、
「織田荘」の「代官」として「経済活動」
をしていた。
と、ここで「武士」について少し「解説」を
したい。
と言うのも、「武士=武装農民」と言う
「言説」はもう「古い」のだ。
それは「武士」を「農民」とすると
中々「厄介」な話になる。
それは、「武士」の中には「僧兵」や
「神人(下級神官。神社の護衛武士でもあった)」。
また、「忍者」の「元」となった、「悪党」や
「海賊(水軍)」など、「流通」や「経済」に
「立脚」した武士は「何処に入れるのか?」
となる。
つまり、「簡単なコト」なのだ。
もし「武士」が「農民」だとして、
「年貢」を「送る」のは「京」だ。
その「年貢を送る」のに、「農民だけ」で
「輸送できる」だろうか??
「無理」なのだ。
「農民」は「農耕」は出来ても、
「輸送」の「手配」や「予算組立」や
「人足・護衛」の「調達」は無理だ。
なぜか?
農業は言い方が悪いかもしれないが、
「過酷な自然込みのルーチンワーク」だ。
そのため「開墾」や「土地」を「作物」が
「馴れる」までは「大変」だが、
「落ち着け」ば、「自然」は「コントロール」
出来ないが「肥料」、「水」、「人手」さえ
あれば「ルーチンワーク」だ。
バカにしてる訳でなく、「農業」の「特性」であり
「農地」が「安定」すれば、「季節毎」の
「作業」をすれば良いのだ。
 然し、「経済」は「仕組み」が「複雑」で
「違う」。
「経済」は、「貨幣」と言う「仲介者」が
あり、それが「その時の価値」で「変わり」、
「人」の「労働」と「時間」を「商品」の
「価値」として「販売」するのだ。
と、言う事は「人」によって「労働」の質は
「違い」、「人」によって、「価値」も違う。
そして、「商品」の「価値」も違う。
「経済」はその「調整」をし、その中から
「利益」を「得る」。
更に「経済・商業」は「人」がいる。
色々な「人の利害」と「交渉」する。
経済は、農業とは違う「複雑性」があるのだ。
つまり、「武士」が「農民」なら、
「領主・地主」であり、「経済」よりも
「持続・経営」になる。
ならば「金銭」を「勘定」して、
「雇用人」に「配当」し、「輸送する」のは、
「無理」だ。
つまり、「武士」には「農民」だけで無く、
「商人」や「交易家」、「宗教者」、「芸能者」も
いたのだ。
さらに、「宗教」は「国家」の他に
「力」をもつ「第三勢力」だ。
「国家」の次に「商人」が「財力」を持ち
「国」を「超えた力」を持つ。
更に「宗教」は国を超えた、「信仰」と言う、
「ネットワーク」を持つ。
それは全ての「枠組」を超えて、
「人」、「物」、「金」が「集まる」。
武士には宗教や商業に「立脚」した、
「武商」がいたのだ。
又、「仏僧」や「神官」は、「農耕武士」の
「政権」たる、「鎌倉幕府」などの
「エコノミスト」、「コンサルタント」
つまりは「管財人秘書」をしていた。
ましてや「神社」は「古代氏族」の
「職制」が「受け継がれており」、
「寺」と「神社」は、一つの「経済団体」である。
その為、「鎌倉時代」には、「開拓し尽くし」、
「頭打ち」となり、「支払う給料(土地)」
がなくなり、「不満」が「高まる」
幕府に対し、
まだまだ「見開発」で、「不動産資本」に
「縛られず」、「人」、「物」、「行為」、
「技芸」・・・、あらゆるものを
「商品」にし、「金に変える」商業を
「資本」とする、「寺社」や
「寺社」や「荘園領主」に「反抗」し、
「農業資本」の「武家」に「対抗」した、
「悪党」は、新しい時代の「主役」だ。
「悪党」は汎ゆる「出自」がある。
「武士」、「浪人」、「商人」、
「海賊」、「賤民」、「庶民」・・・
そんな、「多様な人々」からできており
「武士」や「貴族」等から「蔑まれ」、
それから守るため、「武装」した
織田家は、「鎌倉時代」には「藤原氏」を
「称し」、「織田荘」の「代官」として
「活躍し」、その活躍を見て「斯波氏」に
「登用した」のだ。
そして、「斯波氏」が「尾張守護」と
なった時に「尾張」に行ったとされる。
また、「応仁の乱(1467〜1477)」の時に
「斯波氏」は、「山名方」の「西軍」に付いたが、
先年から争った「朝倉氏」が、
「細川方」の「東軍」に寝返り、
「斯波氏」を「越前(福井)」から
「追い出した」のだ。
その為、「斯波氏」に付いたか「家老」の
「織田氏」は、「斯波氏」と共に、
「尾張」に行った。
皮肉にも、「朝倉家」を「滅ぼし」、
「越前」を取った「織田家」は、
「先祖の敵」を取った形となったのだ。
歴史は、「人間史」の「大河の流れ」だ。
だから、「関係ない」と思えても、
見えない「因果律」がある。
其処を「学び」、「楽しむ」のが、
「史学」の「楽しみ」だ。
さて、織田信長は「織田氏」の本流では「無い」。
「織田氏」は「二家」に別れ、その本家の
「勘定方」であったのだ。
「尾張」に行った「織田氏」は、
広大な国なので、「二家」に分け、
「守護代」として「清須(清須市)」に居を構える、「本家」の「大和守家」と、
「岩倉(岩倉市)」を中心に「犬山(犬山市)」
等、尾張北部を治めた「伊勢守家」、
そして「伊勢守」から別れた、「犬山家」
など「多くの分家」があった。
そして、「織田信長」の家は、
その「大和守家」の「家臣」の
「清須三奉行」といわれた、「藤左衛門」、
「因幡守」、そして「弾正忠」の三家で、
その中の、「勘定」と「家の賄勝手」を
司る、「勘定奉行」で「末の分家」の
「弾正忠家」なのだ。
「藤左衛門家」が「筆頭」で、
「因幡守」の順で、「弾正忠」は
「下っ端」だ。
然し、なんで「弾正忠家」が「のし上がれた」と
言うとそれは「資金源」が「豊富」で
その「バックボーン」になってた
「商人たち」が「面白い」のだ。
一方は「津島衆」、もう一方が「熱田衆」だ。
これで東海中部地方の方は「お解り」だろうが、
「津島衆」は「津島市」の「津島神社」の
「熱田衆」は「名古屋市熱田区」の
「熱田神宮」の「神官」だ。
「弾正忠家」は、「彼ら」と「勘定奉行」の
「ツテ」を活かして、時に「優しく」、
時には「武器を以て」接した。
それをしたのは、信長の「祖父」の、
「織田信定(????〜、1538)」だ。
彼は「津島衆」を配下に入れるため
「従属勧告」を通達したが、「拒否」された
ため、「津島を焼き討ち」して「降伏」させた
それは「信長」より「ファンキー」なひとだ。
その「信定」が「津島」を屈服させ、
「信秀」の代には、「湯水」の如く、
「金」を使い、「天文9(1540)年」には、
「伊勢神宮」の「式年遷宮」により
その「資金調達」の為、「出資」を募っており、
信秀は、「材木」と「銭七百貫(約3500万)」
を出し、「朝廷」より、「三河守」を
もらった。
これは、先年より、「今川家」と、
「三河国(愛知東部)」を争奪していたため
「朝廷の官位」で「三河国司」の号を
貰い、名目上「三河太守」として、
「大義名分」を得たのだ。
そうする事で、「周囲の勢力」に
「三河の支配権」を知らしめたのだ。
それを可能にさせたのが「津島衆」と
「熱田衆」である。
では、「彼ら」は何だったのか?
・まずは「津島衆」から。
津島衆は「津島天王社」の神官ではあるが、
在地の「武士」として、そして「商人」として
の面がある。
その「始まり」は、「南北朝」の「南朝の落人」
なのだ。
応永31(1421)年、
信濃宮尹良親王(1364〜1424)は
「南朝再興」のため、遠江(静岡西部)の
「井伊氏」や「天野氏」、
三河の「足助氏」など、「在地の侍」と
共に、「打倒足利幕府」のために、
「ゲリラ展開」をしていた。
抑だが、「南北朝時代」とは何たるかが
解らない人が多いだろう。
一口に言うと「天皇の親族争い」に
「経済問題」、そして「近畿の武士への差別感」が
相俟って、「起こった現象」で、
後嵯峨天皇(1220〜1272)に
「御深草」と「亀山」両天皇がおり
「弟」の「亀山天皇」を「偏愛」したが為
「皇位継承問題」になったのだ。
「後嵯峨天皇」は、強引で又、神経脆弱であり
亀山天皇を可愛がりつつ、しかし
後深草天皇を退け、更に皇位継承の
意思をはっきり示さず、「曖昧」に流した
事で、「大凡百年」。
戦国時代まで含めたら、「二百五十年」まで
続く訳だから、随分「罪作り」である。
然し、「後嵯峨」に「同情出来ない訳」では
ない。
彼は、「後鳥羽上皇」の孫で、殆ど
「承久の変」のとばっちりの「土御門天皇」
の「子」で「幼少期」は、「父・土御門」は
隠岐におり、「親の愛」が無く、
寂しく「過ごし」親の愛を知らず、
「繊細」で「奇矯」になったのだろう。
これは重要な事だが、「自分の行動」を
見直す時や、「歴史」を見る時は、
必ず「三世代前」まで遡ると、
その「問題理由」がわかるのだ。
それは、「人間」は、「親世代」や
「時代環境」により行動が変わる、
その為、「歴史」が変わるのは「百年」程
掛かる。
家庭環境なら「三世代」だ。
大体「家庭」でも「歴史」でも、
「揉める」のは、「三世代前」の「問題」があり
「神経症」や「精神的な悩み」があるなら、
「父母・祖父母」の「行為」を見ると
「何が自分を苦しめているか」解る。
その為「歴史」でも、「歴史的事件」を
紐解けば、大体「五十〜百年前」の
「行為」が「良かれ悪かれ」響くのだ。
歴史は「大河」である。
それだけ「親」も「我々」も「行動」一つが
「重い」。
そして「親の行為」は「重いのだ」。
どうも「後嵯峨天皇」は、「天皇即位時」に、
承久の変の「戦犯の子」なので、
幕府に「横槍」を入れられ、それがトラウマ
となり、「皇太子」を決めず、
更に利発で可愛らしい「亀山帝」を偏愛し、
「気弱」で「おとなしい」「後深草天皇」を
嫌ったのだ。
更に「鎌倉幕府」が出来、「一応の平和」が
来、そのなかで「北条氏VS他武家」との
政治闘争により、「北条氏に負けた武士」や
「窮乏した武士」が「無足人(領地がない武士)」が増え、更に「北条家の栄華」のために
「出世」も「昇給」も無い。
その為、「貧乏武士」は「領地」を
必要としない、「商業」と「金融」、
更に「博打」や「芸能」の「興行」を
「職」とした、「荘官」や「代官」になり
「武家」の下請をし、後に「荘園」を「侵食」し
「武家」に反抗した。
此れを「悪党」と呼ぶ。
「悪」とは付いているが、この悪は
「罪悪」の「悪」では無く、
「幕府に反抗」と言う意味や、
「ワイルド」と言った意味で、実は
「近畿」や「寺社領」、「武家領」には
早くからおり、寧ろ武士から見たら、
領地を持たず武装し、反抗したから、
「悪党」と呼ばれたのだ。
彼らは、時に「武士」に付き、またある時は
「寺社」や「公家・朝廷」に付き、
「渡り歩き」、上手く「拡大」した。
更に源平以降、力を失い「政治」の表舞台から
遠ざかり、又「御深草天皇」の「持明院統」
「亀山天皇」の「大覚寺統」(ふたつの系統は
御深草、亀山両帝が隠居した寺に因む。)
がもめた時、幕府と英名高き「北条重時」
が「仲裁」し、「両統継承」をした。
「朝廷」や「公家」からすれば、
元は「人殺し」の「穢多き存在」で
(元は朝廷が何もしないからそうなったのだが・・・)公家からしたら、そんな
「獣」の「下等生物」が「政治」を
動かしてるのは「異常」だ。
さらに「大覚寺統」の「後醍醐天皇」が
「持明院統」と「交互」は可笑しい。
元々は「後嵯峨天皇」に認められたのは
「大覚寺統」だ。
そんなエゴイズムがある。
自分の一族繁栄のために倒幕を考える「後醍醐帝」
幕府と北条家の繁栄の裏で泣き、反抗する「悪党」
武士への「純粋」な差別感で「政治復古」を
企てる「公家」。
その「三者」の利害が「合致した」。
その「三者」が起こしたのが「建武新政」であり、
その「建武勢力」をの「息の根」を
足利氏が「息の根」を止められなかったために
混乱したのが「南北朝」である。
「後醍醐帝」は「自らの皇子」を
「分身」として「派遣した」(このやり方は
皮肉にも、武士の始まりと同じだ)。
その中に、「信濃宮宗良親王(1311〜1585)」がいる。
彼は、信濃を中心に甲信地方の「方面団長」で
あった。
彼は「井伊氏」や「信濃」の「香坂氏」などに
支えられ、「南朝ゲリラ」を起こした。
その「側近」に「堀田正泰」がいた。
彼は詳細不詳であり、よくわからないが、
その「家紋」は「木瓜紋」であり、
又、その「本姓」は「紀氏」であり、
恐らくは、「祇園社」の社家だろう。
と、言うのも「祇園社家」の「八坂氏」は、
「紀氏」であり、更に「祇園社」には
堀田氏があり、堀田氏は「建武新政」に
「後醍醐天皇」に従い、そのまま
信濃宮に「従った」のだろう。
また、堀田氏は「祇園社」にも
「残って」おり、「信濃宮」についた
堀田氏は、その「傍流」で公家や信濃宮に
仕えた者だろう。
「信濃宮」は、「堀田氏」や「酒井氏」、
「大橋氏」、「平野氏」、「鈴木氏」、
「服部氏」、「河村氏」、「山川氏」
「岡本氏」、「宇都宮(大久保)氏」、
「野々村氏」、「児玉(奥平)氏」など、
多くの「侍」たちを引き連れて、
「戦って」いた。
この「名字」たちを見て、「ピン」と来たら
中々の「戦国通」だろう。
これは「東海地方」に多い名字なのだ。
彼らは「応永三十一(1424)年」、
「信濃宮」最後の「浪合合戦」にも
付き従い、「最後」までいた者達だ。
その後、「信濃宮」の遺児、「良王」を
護りながら「堀田正泰」らは、
信濃から、伝手をつたい遠州、三河へ逃げ
尾張迄逃げた。
これは、「遠州」の「井伊氏」、「天野氏」
そして「三河」などの「親南朝方」を
使い逃げたのだ。
そして、「津島」まで逃げて、
その「天王社」に入り、「良王」は
神職となり「氷室氏」となり、
「堀田正泰」ら「15人」は、
「津島」に「土着 し「津島十五党」となり、
「酒井氏」、「天野氏」らは、
「三河」、「尾張」に散らばった。
これは「南朝再興」のため「各地」に点在させ
「土着」させ、「事が起こった」ら、
「蜂起する」のに、「交通の要所」で、
「経済地」の「尾張・三河」に行ったのだろう。
更に「津島天王社」は、「祇園社」の
祭神と同じく、「牛頭天王」だ。
此れは当て推量だが、「堀田正泰」が
「祇園社家」であり、その「祭神」の
同じ「津島社」へ行き、そこに逃げたのだ。
更にここに「熱田衆」と関係する。
熱田大宮司の「千秋氏」は、「藤原南家流」で、
元は「尾張国造家」の「尾張氏」だった。
然し、「永久ニ(1114)年」に「夢告」あり、
「尾張氏」から「藤原氏」に移った。
夢告とは、一つの「口実」で、
実際は、有名氏族らが寺社の「僧侶」や
「宮司」となり、「勢力」を作るために
朝廷や有力公家を使い、「宮司」なったり
「社家」と婚姻して、「入った」のだ。
現に源平〜鎌倉期には、結構「源氏や平家」などの
氏族が「社家」となっており、勢力を拡大している。 
藤原と言っても、「南家流」は早くより没落しており、「多く」の「藤原系武士」は南家が多い。
そのため、早くより「源氏」に「婚姻関係」し、
さらに其の力を使い「尾張氏」と「関係」を作り
まんまと「熱田大宮司」になったのだ。
その「熱田」も「南朝」なのだ。
堀田正泰も社家であり、何らかの手引きを
熱田衆がしたともかんがえられるが、
然し「熱田」は、「天神系」つまり「天皇系」であり、「津島」は「地祇」、つまりは「土着系」だ。
日本神話を見れば解るが、「天皇系」は
「土着系」を「討伐した」側だ。
その為、「天神系」と「地祇系」には、
「信仰的」な「確執」がある。
その為、「手を結ぶ」となると相当だ。
有り得ない事なのだが、多分「南朝」と言う
イデオロギーにより、一時的結束があったのだろう。
「熱田衆」は、「千秋氏」や「加藤氏」などの
「藤氏系」と、「尾張氏」からの「田島氏」、
「馬場氏」と言った「尾張系」があり、
彼らは、「熱田神宮」の「神威」と
「朝廷」の「権威」を使い、
「市座」を造り、問屋を経営。
さらに、熱田湊を取り仕切り、
知多や常滑、鳴海などの湊や河岸を
持ち、「瀬戸焼」や「木綿」などの
流通を。
また、「同じ天孫系」の「伊勢神宮」との
「流通ルート」を使い、「伊勢志摩・熊野水軍」や
、「伊勢御師」「伊勢商人」とも取引し、
「一大ルート」を「牛耳」った。
因みに、「伊勢神宮」も「南朝方」である。
「熱田衆」は、その「座」や「伊勢」の
「伊勢湾」の「流通」を取り仕切り、
巨万の富を得、また「大宮司」の
「千秋氏」や「熱田衆」は「知多半島」に
「城塞」を持ち、「独自」の「水軍」を持ち、
「水運」を持った。
一方、「津島衆」は「津島の神官」として
「氷室氏」、「堀田氏」、「大橋氏」と共に
「土着」し、「木曽三川」の「水運」と
「金融」で「儲け」、更に「田地」を
「耕し」、「商人的武士」となり、
「勢力拡大」したのだ。

・「桶狭間」は「経済戦争」だった!?
さて、いよいよ「本番」。
「織田氏」は「津島」近くの「勝幡城」を
「築城」、また先程書いたが「津島」を
「懐柔」したり、また「焼き討ち」し
「津島」を従わせたのだ。
そうする事で、「織田家」は「尽きる事」が無い
「金」を手に入れたのだ。
この頃、熱田衆は「守護・斯波家」や
「織田本家」に「近づき」つつ、「独立」していた。
然し、「天文二十三〜永禄三(1555〜1560)年」
に「今川義元」が、着々と「知多」引いては
「尾張」に「手を出して」いた。
所謂「桶狭間前後」の事だ。
この「桶狭間」については、「上洛説」が
未だに「根強い」が、知っている方も居られましょうが、実は「桶狭間」は、「尾張」そのもの
つまりは「尾張説」がある。
然し、私はそれを更に深化させ、
「尾張」の「経済」、詰り「尾張経済説」を
呈する。
実は抑、「今川氏」は「遠江」や「三河」を
「分捕って」おり、「遠江」は「斯波氏」、
「三河」は「吉良氏」である。
更に「今川氏」は「東海一」の「都市」の
「駿府(静岡)」を持ち、「友野氏」、「松木氏」
などの「有力商人」を持ち、又「国人」や
「本願寺」へ「自治政策」をいち早く打ち出し、
「民衆層」を「豊か」にさせた。
更に、「今川氏」は「三条家」や「有名公家」と
「親戚」や「コネ」を持ち、「東海」に
「京文化」を運んた程だ。
「朝廷外交」や「畿内経済」を「知っている」
今なら「東京の官僚」に「親戚・コネ」を持ち
「中央財界人」と「知り合い」がいる、
「静岡知事」みたいなものだ。
「京商人」の「分家」で、「甲斐商人」である
「松木氏」や「伊勢・熊野・志磨水軍」から
「招聘」し、「駿河海賊」と混成させた
「駿河水軍」。
そして、「江尻」、「沼津」、「清水」、「富士」
「井伊谷」、「気賀」、「渥美」など
多くの「港町」、「商人地」をもち、
「伊勢湾」・「熊野」を通じて更に
「伊勢長島(桑名市長島)」の「長島門徒」を
通じて、「交易」をしていた。
然し、その「中継」の「邪魔」となったのが、
「織田家」なのだ。
更に「物証」がある。
例えば、もし「上洛」であれば「通り道」の
「伊勢」の「北畠家」や「美濃」の「斉藤氏」
などに「通過の挨拶」や「条約」がある筈だが
「それすら」もない。
ましてや此れは「軍事上洛」である。
となれば、「同盟」や「従属勧告」がある筈だか
その「影」がない。
となれば、「商圏争い」の為の「経済戦争」だろう。
さらに、「自説」だが「駿河」〜「尾張」まで
を「現代」で言うなら、「静岡〜愛知」である。
詰り、今なら「太平洋ベルト地帯」だ。
「大経済」で「石高」でも「二百万石」以上は
いく。
そうすれば「武田」で「甲斐」と「信濃(長野)」
半国。
上杉は、「越後(新潟)」と「上野(群馬)」。
北条は「相模(神奈川)・伊豆(伊豆半島)」に
「武蔵(東京・埼玉・川崎)」に「下総(千葉北部)」である。
この中で、「今川氏」が「ダントツ」トップだ。
その「栄華」に「歯止め」をしたのが、
「織田家」である。
現に「織田家」は「今川支流」の「那古野氏」を
討ち、「名古屋城」を「盗った」。
その「争い」と「三河」争奪戦の末、
起こったのが「桶狭間」だろう。
もし、「普通」なれば「今川」が「勝つ」だろう
ー然し、「織田」が勝った。
何故か?
それは、「今川」は「商人」らに「自治」は許したが「自由」では無く、「管理」していた。
そこまでは「信長」も同じ。
更に言うと、「寄子・寄親制」や「軍政」さえ
今川と「同じ」だ。
つまりは「信長」は「今川家」のやり口を
「パクった」のだ。
現にすべての人は「何らか」で「パクって」る。
只の「パクリ」では無く、「応用」すれば良いのだ。
更に「津島衆」や「熱田衆」を「今川氏」が
「懐柔」させられなかったのが「勝敗」を
分けたのだろう。
信長は伝記や地元のエピソードでも、
「人前」に出て、「踊り」や「舞」をし、
「庶民・賤民・貴族・商人」問わず、
「フレンドリー」であった。
詰りは、「熱田・津島衆」達に「腹を割り」、
「戦う」変わりに「領内」を、「自由」に
「商売」させ、「統制」させたのだ。
更に「熱田・津島衆」は曲がりなりにも
「武家」である。
やはり、その「経済軍事力」を入れられたのが、
「勝因」で、この時、「熱田大宮司」の
「千秋季忠」らが「討ち死に」している。
恐らくは「信長」は「桶狭間決戦」前に
「熱田神宮」に詣でてる。
詰りこの頃には「熱田衆」を「完全」に支配したのだろう。
これは、私見だがもしや「熱田衆」など
「商人」らが「今川義元」の「陣所」を
教え、「信長」が行ったのかも知れない。
更に、「織田家」は「神官・社家出身」で
「木瓜紋」、詰り「祇園信仰」と関わりがあった。
だから「神人・供御人」と呼ばれた、
「商人・職人」たちに親しかったのだ。
確かに「考察」だらけだが、これだけは言える。
「信長」が「強大な軍事力」や「政策」が
打ち出せたのは、「熱田衆」・「津島衆」など
「地元経済力」を「牛耳る事」ができたからだ。
大分長くなりましたので、今宵はこれにて。

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