徳川家康と国人経済

・こんにちは。
今年は空梅雨に酷暑・・・大変な年ですね。
米や野菜・・・高くなりませんでしょうか?
今年も、天災が多い年、あと下半期
平穏に成ります様・・・
さぁ、「三英傑」も最後の一人。
「天下の統一者」徳川家康です。
実は、人気が無い「徳川家康」ですが
「日本に平和」を齎し、そして「外国の世界史」
でも「パクストクガワーナ(徳川の太平)」とさえ
言われた「平和の創始者」です。
「徳川氏」は「新田源氏世良田流得川氏」の
流れで「源氏」を称しています。
筆者的には、好きなんですけどね。
やはり人気のなさの理由は、「華々しさが無い」のと、「残忍冷酷なイメージ」と「忍耐と人間臭さ」
が「理由」でしょうね。
確かに周りにそうした人がいたら、「尊敬」しても
「親しくなりたく無い」でしょうね・・・
然し、「三英傑」の中では「秀吉」と並んで
「二位、三位」を争ってるのですが、
ではなぜ、「三河(愛知東部)の地侍」がなぜ
「大天下」を「取れた」のか?
それも「経済」で分かります。
・・・・尤も、今回は「地勢」と「タイミング」が
殆どですが・・・
それでは参りましょう。

・松平氏の「始祖伝説」と南朝勢力と宿場
・まず、「徳川氏」を知るにはその前の
「松平氏」を「話さなくて」はならない。
松平氏は、「現愛知県豊田市松平」の
「松平郷」を中心に、大きくなった「氏族」で、
先も行ったように、「新田氏流」を称している。
その謂れは、「徳阿弥(子)」と「長阿弥(父)」と言う「親子」が「諸国来歴」していたが、
たまたま「松平郷」の「太郎左衛門家」に
「止しゃあいいのに」、まァ「その家」の
「後家さん」を「いてこまして」しまい
「孕ませてしまい」、さらに「お隣さん」の
「酒井さん家」の「後家さん」も「デキちゃった」らしく「どう責任とるか」となり、
それで「徳阿弥」「還俗」して「親氏」と名乗り、
「長阿弥」は「有親」と名乗って、
「松平家」の「入り婿」となって、
「家を栄えさせた」と言う。
また「祐阿弥」と言う「子供」もいたとされ、
その子は、「泰親」と名乗り、
「松平二代目」となる。
その「有親」、「親氏」、「泰親」の三人は
「上野(群馬)」の「世良田(群馬県新田郡
世良田)」の「新田氏末裔」であるとする。
この「徳川氏伝説」だが、この「新田氏説」に
関しては「嘘っぱち」だろう。
というのも「2つの理由」で「否定できる」。
まず「家紋」。
知っての通り、「徳川」の「家紋」と言えば、
「三つ葉葵」だが、この「葵」こそ
「証左」なのだ。
実は「葵」は「賀茂氏」の「家紋」であり
「上賀茂・下鴨両神社」の「社人」で
「古代」、「軍事」と「呪術」を司る一族だ。
「上賀茂・下鴨」と言えば、「葵祭」で有名だ。
因みに結構、「加茂市」や「賀茂郡」、
「賀茂町」、「鴨宮」などの「かも」の付く
「地名」があるが、これは「賀茂氏(鴨氏)」の
「開拓」した「郡村」であり、つまり、
「賀茂氏の土地」なのだ。
特に賀茂氏は、「土佐(高知県)」や
「美濃(岐阜南部)」、「越後(新潟県)」、
「大和(奈良県)」、「備前(岡山県)」など
いくつかの系統があるが、多くの「土地」を
「開拓」した。
「賀茂氏」は、「軍事」や「呪術」を
「生業」とし、「山岳」や「山地」に
「住んだ」。
そのため「薬学」、「製鉄」、「道教・陰陽」など
を生業とした。
また、「二つ目」が「大切」で、
「松平郷」のある場所が、「賀茂郡」なのだ。
その「二つ」の「証拠」故に「松平氏」が
「賀茂氏」だと言うことがわかる。
然し、だか「徳阿弥伝説」は強ち全てが
「嘘っぱち」ではなく、一つの「歴史視座」が
「解る」。
それは「徳阿弥」が「○阿弥」と言う
「遊行僧(時宗僧)」であった事。
もう一つは、「徳川氏」が、「南朝方」の
「新田氏」を名乗った事だ。
おや、「信長」に引き続きまたもや「南朝方」が
でた。
読者諸氏は、うんざりかも知れんが
この「南朝」と言う「キーワード」は
「歴史的意義」が「大きい」。
と言うのも「信長」のほうを観て頂くと
有り難いが、「南朝方」は、殆どは「武家・公家」の「二・三男」であり、その殆どは「悪党・海賊・悪僧・山伏」と言う、「世の中のアウトサイダー」である。
彼らは、「商業・金融・貿易・興行・博打」などを
生業し、生きるため、その金を使い、「武装した」
彼らは、「武士」や「公家」、「寺社」に
「抵抗」し、「必要」とあらば、「手を組んだ」。
「悪党」らの「ほしかった」のは「土地」で、
元は「没落武士」や、「名言のダブつき」なので、
「日の目」も「家督」もない。
そのため、当時「悪」とされた「商業」などに
「進出」したのだ。
詰まり「悪党ら」の「強み」は、「機動性」なのだ。
「土地」に「縛られない」ため、「いくらでも戦える」し、「悪党」は「農業」では無く、
「流通」や「鉱山業」、「博打興行」、「金融」
などの「経済活動」により「生きている」ため、
「金がなくなった」ら、「市場や宿場」を
「シマ」にし、「ミカジメ」を取り、
さらに「密鉱山」を「掘り」、「盗賊」をし、
「裏流通」で「儲ければ良い」。
例えて謂えば、「アフガン」や「ベトナム」の
「ゲリラ」や、「南米マフィア」。
さらに「ギャング」に近いだろう。
彼らの「端緒」は、「源平期」には出てきているが
矢張り、その「活発」になってくるのは、
「鎌倉後期〜南北朝」である。
そして「後醍醐帝」死後、「吉野朝」期の
「没落期」を「後南朝」と呼び、
その殆どは「土着」し、「商人」になったり、
「地侍(国人)」となった。
その中の「一部」が、「伊勢(三重)」、
「尾張(愛知西部)」、「三河」に「土着」した
のだ。
これは「東海地方」が、「畿内〜東国」の
「結び目」で且つ、「交通の要所」で
「経済力」があり、「何かあった」ら、
「兵力」を「集めやすい」ので、「東海地方」に
「行った」のだ。
また、「三河」には「南朝伝説」が「多い」。
例えば、「奥三河」の「花祭り」では、
「花太夫」と呼ばれる、「俗体」の「山伏兼神主」
がいる。
この「花太夫」の「一人」の「花山家」は、
「花山天皇」の「末裔」とされており、
その「花祭り」の始まりは、やはり「南朝方」の
「落人」の中の「山伏」が伝えた、
「山伏神楽」や「湯立神事」、「田楽」が
が元だ。
また、「花太夫」の一人に「榊原家」がある。
これが「以外」と 重要なのだ 。
榊原氏は、「伊勢」の「榊原」に居を構えた武士で
いまの「三重県津市榊原町」である。
今なら、「榊原温泉」で有名だ。
実は「榊原氏」は「本多氏」と並んで、
「徳川譜代」で、「本多氏」も「本田氏」と
書き、「伊勢」より「来た」とされている。
さらに、「三河」の「豪族」である、
「鵜殿氏」や「鳥居氏」、「足助(足助町)」の
「鈴木氏」などは、「紀伊・熊野」より
「鎌倉期〜南北朝」に「土着」したとされ、
詰まり「三河」は、「紀伊・伊勢」の
「交易地」となっていたのだ。
更に、「三河」や「尾張」の「南朝方」は、
「織田信長」の項に書いた、「信濃宮」の
「遺臣」であり、その「大将格」は、
「新田氏」であるのだ。
詰まり、「松平氏」が「新田氏」を「名乗った」のは、「三河」の「地侍」に多い「信濃宮の遺臣」に
「聞こえが良い」ところもあるのだろう。
「天下」を「狙ったか」はさておき、
「新田氏」は、「南朝の侍大将」として、
「東海・北陸」で「通りが良い」のだ。
また、「遊行僧」と言うのも「タネ」なのだ。
「遊行僧」の「時宗」は、「道俗時衆」と言う語が
あり、「僧俗がその時に集まり念仏する」事で、
「念仏者の在り方」の事である。
それが「一遍」より「他阿真教」に移るとき
「時宗」とした。
彼らは、「既に愚人、悪人の我ら」は
「阿弥陀により救われた」ので「喜び」を
「踊りながら念仏」する事を「旨」としている。
「時宗信徒」は、「寺院」を「持たず」、
「客僚」と呼ばれる「有力僧」が、
「道場(寺と言うより集会)」を持つだけだ。
更に言えば「浄土信仰」が「在家信仰」なら、
「時宗」は、「流浪信仰」で「救われてるから
捨てる」宗教で、元より「神社信仰」が
入っている為、「寺社」の「社頭」で、
「踊念仏」をし、「草堂」に「寝泊り」する。
更に、「流浪」するため、「漂泊」する、
「連歌師」、「田楽師」、「研屋」、「行商」、
「皮屋」などの「流浪民」や「下層民」に
「多かった」。
また、「浄土信仰」の「特徴」だが、
「僧」であっても、「救われてる」からこそ
「妻帯」しても「構わず」、「女人」もいた。
その為、時宗の徒は一つのの「ジプシー」や
「キャラバン」の如くで、中には「金貸し」や
「問丸(問屋)」もいて、また「大寺院」の
「聖」や「行人」もいて、「寺社」の
「草庵」や「堂祠」を「道場」とし、
「爆発的」に広まったのだ。
彼らは、「死体」の「弔い」や「勧進」をし、
「多くの土地」に定着した。
その中には、戦で落ちぶれて「落人」になり、
また、「浪人者」が食い詰めて「寺に入り」、
「遊行僧」や「聖」になったものもいるだろう。
多分「松平親氏(徳阿弥)」らも、
「新田氏」はともかく、もとは「落ちぶれた武者」
の一族であろう。

・蓮如の布教と浄土真宗伝播
        国人衆の出自と国人経済
・さて、この「時宗」と「対を成す」のは、
「真宗」でも、「高田派」や「仏光寺派」である。
寧ろ本願寺が、栄えるまでは「真宗」と
言えば、「高田派・仏光寺派」であった。
「高田派・佛光寺派」は「本願寺派」より
「古く」、ここでは細かい説明は省くが、
「親鸞」は、「弟子一人持たず候」として、
「教団」を作らなかった。
然し、「弟子筋」にとっては、「食う」ためには
「そんな事」は「言ってられない」。
そのため「簡素」で、「真摯な信仰」に、
「民間信仰的」な「要素」を入れた。
「高田派」は、「念仏」の教えに
「秘伝」を作り、「佛光寺派」は
「名帳」を作り、「布施」を入れると
「書けるよう」にし、「門徒」集めた。
詰まり、「民衆」の「幸福心」を
「くすぐった」のだ。
然し、「本願寺派」は「親鸞」の「教団否定」から
「三代目」の「覚如」が、「親鸞廟」を
「本願寺」にしたため、「真宗」の
「諸門徒」から「批判」され、「覚如」は
「門徒」から「見放された」。
「本願寺」が「大教団」になるのは、
「15世紀〜16世紀(1480年〜1520年頃)」で
「蓮如(1415〜1489)」が「諸国遍歴」し、
「北陸・東海・南紀」などに「布教」したから
である。
その時に「三河安城(安城市)」の
「本証寺」、「勝曼寺」、「上宮寺」の
「三河三々寺」を中心に、「教団」を
「作った」のだ。
何故、「門徒」が多くなったか?
まず、「親鸞」が三河に「来訪」した時、
地元の「豪族」の「安藤氏」が「帰依」し、
「柳堂」と言う、「小さな堂」を作り
「発展」したと言う。
この「安藤氏」、少々「変わりダネ」であり、
もとは「阿倍氏」であり、「後鳥羽上皇」に
「藤原氏」を賜り、「安藤」を名乗り
その後、「摂津阿倍野(大阪市)」に土着し、
いつぞやの時に、「三河に来た」のだとか。
只、「それだけでは無い」だろう。
「3つ」理由がある。
「一つ目」は、「太子信仰」がある。
「太子信仰」とは、「大工(職人)」や、
「流通業者」などが「聖徳太子」を「信仰」し、
「伝播」したもので、なぜ「聖徳太子」かと
言うと、「聖徳太子」は「天王寺」や
「法隆寺」など、「寺院を建立」し、
「渡来」した「商職人」を「起用」したとされ、
そのため、が「聖徳太子」は、「大工の祖神」と
されて来た。
また「聖徳太子」は、「経典」の「注釈書」や
「翻訳書」を「出したとされ」、
その中に、「浄土三部経」があり、
その「翻訳」や「注釈」が、「日本浄土教」の
「始まり」の「基礎」なのである。
そのため「浄土宗」も「浄土真宗」も、
「聖徳太子」を祀っている。
特に、「浄土真宗」では「日本仏教の祖」と
して「信仰」されている。
「二つ目」は、「河川・交通の要所」だ。
「秀吉」の項で書いたが、「尾張・美濃・伊勢」
三国では「川並衆」と呼ばれる「水運豪族」がいた。
三河も、「3つの川」の名の通り、「矢作川」、
「豊川」、「男川」のがそれぞれ「分岐」しながら流れている。
その為「三河」と名付けられたとされるのが
有力だ。
諸説あるものの、全て川に関わり、兎角、三河は「川の国」だ。
その為「宿場」や、「川湊」があり其処が、
「市場町」になり、「商業発達」したのだ。
その為、「地侍」、「国人」が「商業」に
「従事」していた所がある。
その為、「国人」の中には、「武商」(武士的商人)と言うべき存在が、「戦国時代」までいた。
そして、「本多(本田)氏」、「榊原氏」、
「鳥居氏」、「鵜殿氏」、「鈴木氏」、
「服部氏」、「渡邉氏」などは、総て「伊勢・熊野・伊賀」の武士である。
詰まり、そのほとんどは、「水運」や「流通」に
「従事」した「武士」なのだ。
恐らく、「渡辺氏」は「摂津(大阪)の水軍」、
また「鈴木氏」や「鳥居氏」や「鵜殿氏」は、
「熊野水軍」。
更に「本田氏」や「榊原氏」は、「伊勢」から
来た「武士」。
また、「服部氏」は「伊賀(三重西北部)」の
「武士」だ。
彼らは、「何らか」で「流通」や「商業」に
「関わり」、また「服部氏」は「忍び」で
その本は、「興行」や「金融」に携わった、
「悪党」だ。
だからこそ、「徳川(松平)氏」は、「経済力」があったのだ。
更に、「三つめ」がまたかと思われるかも知れないが、「南朝勢力」である。
「織田氏」でも書いたが、「尾張・三河」では、
「信濃宮」の勢力が「南朝再興」の為、
「散らばった」のだ。
その殆どが、「鎌倉後期〜南北朝」に新興した、
「悪党」である。
実は、「悪党」の語は「室町中期」以降から
消えているのだ。
その代わり、「国人」と言う名は出てくる。
そう、詰まり「国人」とは「悪党」が「社会地位」を得た「新興層」なのだ。
「尾張」では、「商人」になった者が多いが、
「三河」では、「開発地」が未だあり、
その殆どは「開発領主」となり、「地域」の
「産業」に根ざした「武士」となったのだ。

・尾張、三河の地理的要因と桶狭間。
     そして、徳川御用商組織団。
・さて話も大詰め。
こっから本番である。
では何故、「徳川(松平)家」が「天下」を
とれたのか?
それが、「地理的要因」と「集金組織」だ。
まず、「三河」の「地理」。
三河は、「愛知東部」で「尾張」と「遠江(静岡西部)」に挟まれ、地理的には「東西の中間」に
「位置」し、「農商」ともに「いい立地」だ。
また、「河川が多く」、「洪水」で土地に
山からの土砂が流れ込み、肥沃な土地であり
また、経済立地も河川の湾港と渥美半島が
自然の防波堤となり、天然の良港も多く、
更に天下の大道、東海道と、伊那街道などもあり、交通の要所だ。
また、丁度良かったのか、不運なのか。
西に「織田氏」、東に「今川」が伯仲して
「争っている」。
これが「伯仲して」いるのが、徳川にとっては
よかったのだ。
これが「一方的」なら、「徳川(松平)」でも
浮き上がるには難しい。
然し、「今川」は、「二国(三河入れて三国)」
に対し、「織田」は、「尾張一国」。
然し、経済力と戦術を加味すると闘いは、
「どっこいどっこい」だ。
只、それは「信長の父」、「信秀」の時。
信長は未知数どころか「うつけ(バカ)」との
噂。
その為、どうなるかわからない。
然し、「尾張一国」と、「今川二国」だと、
「尾張」は、「慶長期(1590〜)」の頃の
記録だが、「五十七万石」で
「今川」は、「駿河」で「十五万石」、
「遠江」では、「二十五万石」。
つまり、「尾張一国」は「今川の二倍」の
財力なのだ。
弱小勢力が生き残るには?どうしたらいいか。
それは、「強大国」に「付き従う」事だ。
詰まり、「コバンザメ」だ。
アッチが強ければ、あちらに付き、
コッチが強くなれば、此方に付く―
詰まり、「コバンザメ」でうまくその時は、
付き従うのだ。
それには、どう言う条件が必要か?
それは、「両勢力」が「伯仲してる事」だ。
それは一方が「強大」だと相手方に
渡ったら、「潰される」からだ。
詰まり「一方」に「渡って」も「手を出せない」
相手でなければ「務まらない」。
これは、現代の大会社と下請け会社徒の
「関係」と同じだ。
詰まり、「待遇が良ければいるが、悪けりゃ
とっとと去る。が下手すると身を滅ぼす」のだ。
だからこそ、「真田」や「徳川」、「松前(蝦夷)」、「相良」、「伊東」、「毛利」、
「浅井」、「津軽」など「弱小・新興大名」は
生き残りの為、なり振りかまわず「渡った」のだ。
筆者からすれば、よくもまァ生き残ったと言える。
一部滅んだ大名もいるがそれでも「旗本」として
残れば、万々歳である。
さて、話を戻すと徳川にとって「織田」、「今川」が「伯仲」し「どっこいどっこい」なのが
良かった。
更に、丁度いい所で「桶狭間」で「義元討ち死に」である。
更にこの「桶狭間」では、「義元」から
「作戦成功」の暁には、「岡崎をやる」と言った。
その「作戦」の「大高城(名古屋市)」の
「兵糧入れ」は「成功」して、
さらに「岡崎」は「代官」が逃げ出して、
「空き城」だ。
ならば「捨て城であらばもらっても構わんな。
岡崎もらう約定もあるし」と言い、
「兵の有無」を確かめてから入ったと言う。
やはり、慎重居士の家康らしい逸話である。
さて、経済はと言うと此れも中々の「妙手」である。
徳川家の御用商は結構多いがその中でも
大手が「茶屋四郎次郎」、「後藤縫殿助」
「小田助四郎」、「亀屋栄任」、「馬込勘解由」、
「奈良屋市右衛門」、「樽屋与右衛門」、
「喜多村彦右衛門」の「三年寄」。
さらに「江戸」に来た「三河・伊勢・駿河」などの
豪商だ。
実は、「亀屋」以外は、「共通点」がある。
それは総て「三河譜代」ということだ。
例えば「茶屋家」は、本姓「中島氏」だが、
その系譜は、「小笠原支流」の「三河武士」だ。
父「四郎左衛門明延」が、「隠遁」し、
「京・茶屋」を開いたのが家の始まりで、
家康に「京へ行け」と言われたから
「四郎次郎清延」が継いだと言う。
恐らく、「武士」に向いていなかったのだろう。
また、「茶屋四郎次郎」は、表向きは
「呉服屋」だが、時に「武器調達」や
「畿内」の「動向」を探る「密偵」でも
あった。
また「後藤縫殿助」は、「岡崎時代」からの
「御用達」である。
また「小田助四郎」は、「三河武士」で
徳川家の「隠密」だった。
「江戸三年寄」と言われた「奈良屋」、
「樽屋」、「喜多村」の内、「奈良屋」と
「樽屋」は、「奈良屋」は「小笠原氏」で
これを見ると、「茶屋」の「親戚」だろう。
また、「樽屋」に至ってはなんと「家康」の
「母方の家」の「水野氏」だ。
「喜多村」は、二通りあり、
「伊賀郷士」の「喜多村弥兵衛」からの系統と、
「金沢町人」の「喜多村彦右衛門」を
「招聘」した系統がある。
恐らく、「喜多村家」は「連雀商(行商)」の
「取締」をしているところから、
「伊賀」も「忍び」だけで無く、「生活」の為
「薬の行商」もしており、「取締」を任せ
何らかの理由により「絶え」、同じく
「喜多村」の名をもった、「彦右衛門」を
「継がせた」のだろう。
「馬込勘解由」は「浜松あたり」の「武士」で、
「馬込橋(浜松)」で「出迎えた」事から、
「伝馬役」を賜った人だ。
また、「江戸」の「草分名主」、つまり
「江戸初期」の「草創期の町人」も、
「江戸の郷士(地侍)」や「三河町人」だ。
しかしなぜ?これだけ「各地」に「三河武士」を?
一つ「ヒント」がある。
「本能寺の変(1582)」の時、たまたま堺に遊覧
していた家康が、三河に逃げるため、
「河内・星田(交野市)」の「平井家」に
行ったがこの家は「三河武士」だったと言う。
実は「三河」は「足利家」の「領地」で
「三河」からは「細川氏」、
「忠臣蔵」でおなじみの「吉良氏」、
そして「伊賀守護」の「仁木氏」、
「守護家」や「奉公衆」の「一色氏」が
出ている。
又、「松平氏」も「伊勢氏」や「一色氏」の
「家臣」となり、「近江」にもいる。
言ってしまえば「本社」の「有力支店」が
あり、「単身赴任」した人が多いみたいな物だ。
その為、多くの「三河武士」が各地に
散らばり、「土着」したり「商人」になり、
それぞれ「活躍」したのだろう。
また、徳川は「南朝方の落人」も多く
その伝手を使って、「情報」や「物資」を
「得た」のだろう。
更に「禍福はあざななえる縄の如し」と言う語
がある通り、「今川家」に「搾り取られた事」が
また「良かった」のかもしれない。
詰まり、「食ってく為」に「各地に散らばり」、
それが「徳川」の「強い伝手」となったのだ。
散らばった武士が、「商人」や「農民」になり、
それが「徳川家」の「組織力」になって、
「幕府三百年の泰平」を築いたのだろう。
最後に、確かに人生は大変だ。
辛い人生もあるし、あらぬ誤解を受け嫌われ、
また産まれた時から、悲惨な家庭環境だったり
自分では同仕様も無い、仕方の無い事も多い。
然し、それがいつの間にか自分の「強み」に
なったり、「持ち味(個性)」にもなる。
徳川(松平)氏は弱小大名だが、
今川家、織田家に挟まれながら、強かに生きた。
そして逆境を「経験」にして、自らの
「チャンス」とした。
確かに「徳川家康」は「凡人」だ。
信長、秀吉からしたら「華やかさは無い」し、
「泥臭い」、更に「やり口が汚い」し、
何より「人間臭い」。
然しだからこそ、「自分」にできる「努力」をし
「磨いた」。
時に「逃げた」。
「頭も恥もなく下げた」。
然し、生きるために「辛酸を舐め」、
「努力」したため、最後にはいつの間にか
「天下人」になった。
それも「幸運」もあるだろう。
然し「幸運を掴む」も「逆境を強みに変える」も
「自ずから」である。
だからいま辛い時にある人は、努力し耐えてください。
それでも辛いなら、逃げてください。
努力が全てが報われる訳は無いかもしれない。
でも、あなたのやった努力の価値は
あなたに必ずや「自信」と言う宝と
「人」と言う、宝をもたらすから・・・
・・・少し説教臭いですね。
嫌ですね、性格出ましたね。
長くなりましたので今宵はこれにて。
暑い季節と台風、恙無くお過ごし下さい。

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