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掌編小説「箱庭の孤独」

 『ジオラマ』と聞いて俺が最初に連想するのは、米津玄師が最初にインディーズで出したアルバム「diorama」だ。
『ここは誰かのジオラマなのだ』
 って歌詞があった。

 でも、実は『diorama』は英語では『ダイオラマ』と発音される。
 ダイオラマ、だいおらま。
 なんと間抜けな響きだろう。
 何だか日本の昔話か神話に出てくるバケモノみたいな名前だ。
 だいおらまぼっち、とか。

——ん?

 『だいおらま』は『ぼっち』なのか。
 俺は自分で思いついた戯れ言に自ら妙な引っかかりを感じた。
 『だいおらま』=『箱庭』
 箱庭の中には、色んなものが入っている。
 その中にいれば、みんながいる。ひとりじゃない。『ぼっち』じゃない。
 でも、その外は? 四面を壁で覆われた、その外側には、一体何があるか、箱庭内の動植物は夢想するんだろうか?
 もし彼らが箱の外に出ることが出来たとして、その時外の世界に何もない、少なくとも箱庭が並んでいることはほとんどないと知れば、彼らはどう思うだろう。
 
 彼らは気づいてしまう。
 彼らの箱庭=コミュニティ内では、彼らはぼっちじゃない。だが一度そこから出てしまえば、彼らは一瞬でひとりぼっちになってしまう。こぼれ落ちてしまう。


 これって、人間にも同じことが言えるんじゃないか?
 家庭という『箱庭』、学校という『箱庭』、会社という『箱庭』、等々。
 大抵の人間は、複数の箱庭に足を突っ込んでいるはずだ。つまり、『大抵の』人間は。
 俺のようなスネかじりのひきこもりニートは、家庭という箱庭にすら帰属している気がしない。学校という『箱庭』からこぼれ落ちてもう何年になるだろう。どうでもいいけど。そんで『社会』という『箱庭』に居場所を失って、俺はもう、どの箱庭にも入れない気がする。

 死ぬまで。

 俺が、自分の足で別の箱庭に飛び込まない限り、永遠に。

「だいおらま、ぼっち」
 俺は小さな声でそう呟き、母がさりげなく置いていった求人誌を手に取ってみた。        

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