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その我慢は誰のため #note03

つい半年ほど前から、クローゼットの中にスカートが増えた。
私を昔から知る人はこれだけでかなり驚くだろう。

可愛いものが苦手だった。可愛いと言われるのも苦手だった。
訳もなく女性らしく着飾ることが恥ずかしいと思っていた。
そもそも自分が女性であることを認められなかった。

七五三の写真撮影で親が選んだドレスを着たときには、あまりの恥と
「なんて似合わない」という絶望感から泣き続けて親とスタジオの方を困らせたことを覚えている。それ以来カメラを向けられることも嫌いになった。初潮を迎えた時の絶望感は今でも忘れられない。

私服は当然の如くパンツスタイル。高校の制服はスラックスを選択し、ヒールを履くことにさえ大学生になっても抵抗があった。
そんな学生時代についたあだ名は「王子」。

*

王子と呼ばれるのは嫌いではなかった。
女性らしい格好を避け続けていただけで、決して容姿に頓着がなかった訳ではないし、当時男性より女性が好きだったからだ。

むしろ容姿へのこだわりは強い方で、某魔法使い様の言う
「美しくなければ生きていたって仕方がない」
という言葉に深く共感さえ覚えていた。これは今でもそうだ。
高校の入学式ですれ違ったのちの友人に「最初見たとき綺麗な男の子かと思った」と言われたことを密かに嬉しく思ったことも覚えている。

そんな訳で高校から大学の前半にかけて、「綺麗な男の子のような女子」
というレッテルを背負った私は、ますます女性らしい格好に抵抗を覚えた。

*

今思えばインスタント式の呪いみたいだった。
誰もが悪気なく口にした「綺麗な男の子みたいで好き」という褒め言葉が
「男の子」であることを辞めたら彼女たちに嫌われる。色気付いたと周囲に笑われるのだ、という超被害妄想を私の中で作り上げていた。

そんな私でもメイクに抵抗は一切なかった。
それはヴィジュアル系のバンドマンや、歌舞伎役者、舞台役者が男性であろうと化粧を施しており、そこに違和感を持っていなかったからだ。
単純に綺麗だと思ったし、「化粧をした男性」の彼らは愛されていた。

世間的に露出機会のある男性が「  」をしている。
そしてそれが世間に受け入れられている。

これが私の呪いを解いてくれる魔法だった。
某専門学校のCMでヒールを履いて踊るジョンテ・モーニングのあまりの格好良さに感動し、丁度流行りだったスカートを履いて堂々と通りを歩く原宿系ファッションの男性に素敵だなと憧れた。

彼らは「僕はこの格好をして生きていいですか」なんて、誰にもお伺いを立てていなかった。

*

つまるところ私は自意識過剰だったのだ。
誰も私なんか見ていないことにもっと早く気が付けば良かった。

本当はリボンも花もフリルのついたスタンドカラーシャツも大好きだった。
でも身につけることはまるで重罪のような気がして、視界から外していた。

実家から出て、学生時代の浅い付き合いの友人たちと疎遠になってから
やっと欲しいと思っていたハイヒールを恐る恐る購入したものだ。
今ではほとんどヒールしか履かない。

服も好きなものを買うようになった。
タイトスカートも、ベルベットのワンピースもレースの施されたシャツも
誰の許しもなしに着て良いのだとここ数年でやっと気がついた。

当然未だに自分が純度100%の女性だという感覚がある訳ではないので、
メンズ服しか着ない時期もあれば、バリカンでベリーショートにしてみたりもする。今シーズンはロングヘアが私の中の流行りだ。

今思えば誰のためにあんなくだらない我慢をしていたんだろうと思う。
自分の好きなものを他人の幻影のために封じ込めていたのかと思うとばかばかしい。
着たこともない服を似合わないなんて、誰にも言う権利はなかったのだ。

近頃はひと月に1着、心から気に入った服を買うことが楽しい。
それはレディースの時もあるし、メンズの時もある。

今日は革靴を鳴らして右前のスーツで過ごしているからと言って、明日はワンピースにエナメルのパンプスを履いていはいけない理由はない。
その日の自分が着たいと思った服が正解なのだ。

さて、明日はどんな服を着ようか。