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2023年3月末 ふくしま

 人生ではじめて鴨南蛮蕎麦を食ったのは東京駅の立ち食い蕎麦だった。入社して間もない頃。今から20年も前のことだ。高速バスに乗り込む前だった。鴨南蛮って美味いよな。鴨肉の歯ごたえ最高。鴨が葱を背負ってやってきたら間違いなく喰らいつく。
 東京駅から高速バスを乗るのは久しぶりだ。20年ぶりの今回はプライベートだよ。入社から20年も経つとリフレッシュ休暇なるものが与えられるのだ。
「どこか行くんですか?」
 そんなことは聞いてくれるな。何の予定もないまま二週間の休みに突入した。見たい映画くらいはあったんだよ。『劇場版 ナオト、いまもひとりっきり』。中村真夕監督が何年か前にクラウドファンディングで資金を集めていたドキュメンタリー映画。ふくしまのクロコダイル・ダンディーなんて呼んでいたけれど、俺にはふくしまのムツゴロウのようにも思えた。だって動物王国じゃない。
 クラファンのことなんてすっかり忘れて、気づけば上映がはじまっているという。試写会のチケットがもらえるはずだったんだけど。何にも届かなかったではないかと訝る。CAMPFIREだったっけ。Motion Galleryだったっけ。慌てて履歴を辿れば入力していた住所が間違っていたことに気づく。なんだよ。ぜんぶ俺のせいかよ。
 ムツゴロウとゆかいな仲間たちに改めて金を払って観に行くだけの価値があるのか。そこまで俺はムツゴロウを、動物たちを、そして、ふくしまを気にかけているのだろうか。
「どこか行ったんですか?」
 どうせ会社がはじまればそんなことを聞かれる。面倒だからだから小旅行でもしておこうか。どっちの思いが先行していたか定かでない。結果、クラファンしてみようなんて気にさせたドキュメンタリー第一作を再度アマプラで観る。渋谷イメージフォーラムへ足を運ぶ。そして、十分に予習したうえで東京駅からJRバスいわき3号へ乗り込もうとしているのだ。『I love you & I need you ふくしま』だって最近になってDL購入した。
 高速バスの前には立ち食い蕎麦だろうというマインドがセットされている。そして、鴨南蛮蕎麦を求めて八重洲南口へ向かった。事前に調べていたから立ち食い蕎麦屋があることは分かっていたのだ。しかし、流石に20年前と同じ店ではなかった。なんなのだこのメニューは。鶏唐揚げがのった蕎麦、豚肉がのった蕎麦、その二択に、生卵をのせるかどうか。俺の求めているものはそこになかった。豚肉に卵をのせた。
 20年ぶりの八重洲口バス乗り場だ。迷うかもしれないじゃない。その前に立ち食いそばを食いたい。探すかもしれないじゃない。俺は万全を期する。余裕をもって家を出たら、1時間近くも発車を待つことになった。バス乗り場の近くには花壇があった。正確には樹木が生えている。樹木が一本生えている円形の花壇はきっと別の名称があるのだろう。とにかく俺は花壇か某かに腰を下ろした。缶コーヒーを啜っていればKeikyuバスが乗り場に到着した。そのドアが開くとFree Wi-fiと書いてあるではないか。ラッキー。俺はバスにも乗らずにそいつと接続する。そして、旅程としていた灯台やら伝承館やらタクシーツアーやらを入念にチェックする。俺は万全を期するんだよ。
 Keikyuバスは乗客を乗せて発車する。Wi-fiの電波が1つ削れ、2つ削れ、やがて途切れた。クソ。いや、Keikyuバスには感謝している。JRバスを予約していたはずだが6番乗り場に現れたそれはTokyuバスだった。いわき3号と表示されているから間違いはないだろう。バスってそんなに柔軟なの?東京メトロ千代田線がJR常磐線各駅停車に乗り入れたりするけれど、バスの貸し借りとかも有りなのか。そして、TokyuバスにはFree Wi-fiがなかった。俺は未だに無制限プランじゃないんだよ。それでも制限いっぱいまで使ったためしがない。
 バスは首都高から三郷インターチェンジを抜けて常磐自動車道へとひた走る。東名といえば東京と名古屋よね。常磐というのも常と磐をつなぐ道ということなのだろう。常磐と聴くとハワイアンセンターを連想してしまう世代。いまではスパリゾートハワイアンズ。常磐とはなんなのかとググる。Free Wi-fiのないTokyuバス車両のJRバスでググる。茨城県の大部分はかつて常陸の国とよばれた。そして、俺が目指すは磐城の国だ。なるほど常磐とは常陸の国と磐城の国をつないでいるのか。
「こちらで10分間の休憩をとります」
 バスは友部サービスエリアで休憩をとる。乗り遅れたらめちゃ怖いなと思いながらもトイレットへ向かう。公衆便所の前には立派な桜の木が花を咲かしていた。円形の花壇。樹木が一本刺さっていてもそれは満開の桜であるのだから花壇と呼んでいいような気がする。用を足してからスマホで写真をおさめる。0.5倍の広角カメラというものが好きだ。近くで広く撮れるのが楽しい。空も雲も広く収まり画的によい。そして、この桜は公衆便所の前の桜と呼ぶよりスターバックスコーヒーの前の桜と呼んだほうがいいのかもしれないと気づく。
 そそくさバスに戻ればまだ5分近く時間があった。10分休憩というものは意外と長い。万全を期する俺は、旅行や出張の都度、時間を持て余す。それでも、間に合わないよりいいじゃない。
「それでは乗客の皆様を確認します」
 ドライバーは野鳥の会で有名なカウンターを握りながらバスの前方から後方まで歩いて回る。きちんとカウントしてから発車するのだな。そりゃそうかもしれん。
 いわき市というものは大きい。高速バスはいわき市から福島県に入り、いわき駅まで6つのバス停を通過する。いわき勿来IC、いわき湯本IC、いわき中央ICにいたっては何度も常磐高速を出たり入ったりしながら進むのだ。
 いわき駅には「祝いわきFCJ3優勝&J2昇格おめでとう!」の横断幕が掲げられていた。同行の小僧から、いわきFCはJリーグ参入の初年でJ3を制覇しJ2へ昇格を決めたのだという知識を得る。そいつはすごい。どのくらいのすごさなのかいまいち分かっていないが、DJポリスが出動するほどの大熱狂があったのではないかと勝手に想像してみる。
 ラーメンを啜ったらローカルバスに乗り継ぐ。灯台入口で下車すれば、遥か彼方に塩屋崎灯台。遠いよ。ここは灯台入口ではなかったのか。そして、辺りの様子に違和感を感じていた。海辺のはずなのに海が見えない。そして、きれいに整備された芝の公園。点在する家々もバスの車窓から眺めた街と比べて妙に現在的だ。ひとまず海に出たい。芝の公園を上がればそこは延々伸びる防潮堤であることに気づく。そして、普段から東京湾しか見ることのない自分を太平洋が圧倒した。防潮堤を下って砂浜におりる。こんなにも長い水平線を拝むのは何十年ぶりだろうか。背後に伸びる防潮堤など比ではなかった。波はほどよく高く、幾度もシャッターを切った。12年前の惨状を想像することはなかった。
 太平洋は雄大で、細かい砂を踏みしめながら歩くのは心地よかった。そして、塩屋崎灯台。遠いよ。でも、来たからには行きたいじゃない。のぼりたいじゃない。全国にはのぼれる灯台が16しかないそうだ。途中、美空ひばり「みだれ髪」の歌碑がある。近づいてみるとひばりさんの歌声が流れる。う~ん。知らん歌だな。突如現れる「豊かな人間性」と刻まれた石碑。ごめんなさいと心の中でつぶやいた。
 塩屋崎灯台は二代目だそうで「おたんじょうびおめでとう」という看板が建てられていた。1940年から立っているとのことで73歳だ。300円を支払って螺旋階段を上がっていく。扉を抜ければ、360度ぐるり回ってパノラマビューが楽しめる。平均水面から灯火まで73メートル。綺麗え、高え、怖え、綺麗え、高え、怖え、高え、怖え、怖え、と言う間に360度。扉の前には平然と太平洋を眺める老夫婦。ヒトがすれ違うにはちと狭い。高え、怖え、怖え、と逆回り。そそくさと階段を下りて行った。
 薄磯・豊間地区は、最大8.57メートルの津波に襲われて多くの家屋が全壊・流出、200名を超える犠牲者が出たそうだ。ここに来たもう一つの目的は「いわき震災伝承みらい館」だった。そこであの「豊かな人間性」は校舎が被災した豊間中学校に置かれていた石碑だったことを知る。現在では、高台に新校舎を完成させ、石碑が海辺に残された。津波に呑まれる薄磯・豊間地区の映像や被災現物を目にしてから展望デッキに建つ。あたりは綺麗に整備された公園のように見える。ここにはかつて学校があり、住宅が立ち並び、賑やかな生活があったというわけか。
 
 ビジネスホテルは朝食ビュッフェ付きに限る。かつては出張の多い仕事だった。慣れているし落ち着くんだよ。ビジネスホテル。プラベート旅行だっていうのにビジネスホテル。楽天トラベルでビジネスホテルなんて絞り込みはなかったはずだ。聞いたこともないホテルだが、ここはビジネスホテルだということが分かる。
 出張時のホテル選択にはいくつかの条件がある。朝食ビュッフェが付いていること。有線だろうが無線だろうがネットにつながること(今となっては当たり前だが)。そして、できれば大浴場があってほしい。ユニットバスというものの使い方がよく分からないのだよ。便器が配備されたスペースは身体を洗うためのものではないというではないか。身体は風呂釜の中で磨け。それではどうやって湯をためればいいというのだ。身体を磨いてから風呂釜を洗って湯をためるのか。泡風呂をつくって風呂の中で身体を洗うのか。小僧も同行しているのだ。大浴場につかりたいではないか。朕毛が生えたか確認したいだろう。結果の公表は控えておく。
 ホテルビュッフェで地元の特産品を知る。会津には「こづゆ」と呼ばれる郷土料理があるようだ。「会津高田納豆」も特産品か。「いかにんじん」は中通り北部の郷土料理。シシャモのような「メヒカリの唐揚げ」はいわきで採れる魚だそうだ。なんか、どれも朝飯っぽいよね。地方のホテルでニュース番組を見ることもどこか楽しい。天気予報で福島は大きく、浜通り、中通り、会津に分けられることを知る。俺たちの滞在したいわきは浜通り。「こづゆ」と「いかにんじん」と「メヒカリの唐揚げ」をプレートに盛って、福島を制した気分になる。ゴメン。納豆は家でもよく食べているから。
 腹を満たしたら、この日は常磐線でさらに北上すると決めていた。俺は万全を期する。広野駅とJヴィレッジ駅の間に広野火力発電所があることを調べていた。竜野駅と富岡駅の間には福島第二原子力発電所がある。楢葉町と富岡町を跨ぐいわゆる二エフだ。そして、大野駅と双葉町の間には福島第一原子力発電所。大熊町と双葉町を跨ぐいわゆるイチエフだ。俺は海側のボックスシートを陣取り窓辺にはカメラを置いていた。
 いいよね。ボックスシート。ローカル線から田園風景を拝む。トンネルを抜ける。山間の鬱蒼とした樹々を眺める。ふと視界が開けると川が流れその両岸には桜が咲いていたりするのだ。そう。桜のタイミングとしてはばっちりだったんだよ。例年より9日くらい早く開花したという。温室と化した惑星には眉を顰めるが、今度ばかりは運が良かったななんて思いもしてしまう。気候正義を訴え続けるべきだし、気候危機への対策が後回しになっている資本増殖大好き主義にはホント辟易しているんだぜ。でも、今度ばかりはタイミングが良かったな。なんて。
 全線再開まで9年もかかった常磐線だ。海沿いを進んでいると思っていたが、海なんて一向に見えやしない。大半は鬱蒼とした樹々に遮られトンネルに突入する。三つの発電所も電車から拝めるものと思っていた。地形の問題か、あえて見えないようにしているのか、なにもカメラに納めることはできなかった。楢葉町と富岡町を跨ぐいわゆる二エフ。大熊町と双葉町を跨ぐいわゆるイチエフ。それらはふくしまの原発と呼ばれ、町の名前を知らずにいた。町の名前で呼ばれないようにあえて二つの町を跨いでいるなんて話を聞いたことがある。町伝説かもしれないが。俺たちはコンセントの向こう側を知らずにエアコンの利いた部屋でスマホを充電していたりするわけだ。
 そして、双葉町に降り立つ。旅行の一番の目的は「東日本大震災・原子力災害伝承館」を訪ねることだった。その土地に来るからにはニンゲンの声が聴きたい。伝承館では毎日のように語り部講話が行われていた。午前中と午後で異なる語り部が話を聞かせてくれるらしい。そこにはどんな思いがあるのか知れない。話すことで気持ちは苦しくならないのだろうか。話すことで解放されることもあるのだろうか。ただの興味で耳を傾けることは失礼でないだろうか。
 そう。失礼ではないだろうか。この思いはふくしまを訪ねようと思った時からずっと拭えなかった。俺はなんで12年も経ったふくしまを訪ねてみたいと思ったのだろう。ヒトの命を救えるわけでもない。土砂の撤去を手伝えるわけでもない。そこにあるのはただの興味だ。東日本大震災は俺の40数年間という半生の中でも大きな出来事であった。あの日、関東でも大きく揺れた。たった1日だけれども家に帰れず避難所で夜を明かした。それだけの経験だ。そんな分際がふくしまを訪ねて何ができるわけでもない。ただの興味で来たんです。そう開き直ることしかできないという回答にたどり着く。語り部さんにには不躾でも言葉をかけよう。その後にはタクシーツアーを予定していた。そこでも見たいものをはっきり言ってやろう。その代わり金は落とすよ。端金であろうともみんなの明日の飯につながるように金は落とすよ。
 午後の語り部さんに関して言うと、俺は圧倒されてなにも声をかけることができなかった。第一原発から真っ先に逃げ出すのはその危険性をよく知っている職員だ。そして、目に見えない危険に戸惑いつつ、なんとかここから逃げなければならないと、ガソリンが尽きるまで車を走らせた。ほかの土地で暮らしはじめることを選択すれば、子供たちは「ふくしまの子」と呼ばれた。変な言い方だが、とても話し慣れていて抑揚の付け方も完璧だった。ただただその情景を思い浮かべながら脳裏に焼き付けた。
 伝承館で知った事実として、原発から20~30キロ圏の住民は自宅待機するよう指示されたというのに、物流が30キロ圏で折り返していたという日々があったこと。混乱していたとは言え、酷い有り様だ。一体どうして生活を送れというのか。
 コロナ禍でも感じたが、我々は有事において政府の指示に従順だ。どうしたらいいか判断がつかないんだもの。有識者の判断だと言われたら反論なんかできないじゃない。何かあったら国が言ったんだって言いたいじゃない。
 午前中の語り部は朴訥とした老夫だった。そこで「特定復興再生拠点」という言葉を知る。未だに原発の町には「帰宅困難区域」が広く存在し、「避難支持解除区域」に住民は帰ってこない。駅前の僅かなエリアに設定された「特定復興再生拠点」にだけ金が使われ、駅舎や役場が建てられているのだ。住民が帰ってこないという話は映画でも聞いていた。
 講話の後、俺は老夫に歩み寄る。
「ありがとうございました。今は大熊町に住まわれていないということなんですよね?」
「住めないですね。住めないですね」
「ここ(特定復興再生拠点)しか住めないってことですよね。何世帯くらい住んでるんですか?」
「ここですか?ここにはそんなに多くは住んでないですね。住んでるって言うか、役場のヒトが仕方なく来てるか、あとは工事現場の人が住んでるか」
「いわゆる住民はほとんどいないってことですか?」
「住民はいないと思いますね。あとはほかの地区から来てくださいっていうキャンペーンがあって、それで来てるっていうヒトもいるんですけど、まあ、住民のヒトは戻れないですね。仕事がないですから」
「あと学校がないと子供のいる世帯が戻ってこれないと聞いたりもしますけれど」映画で聞いた話だ。
「うーん。まあ、広野町にはあるんですけど。ここにはあるんですけど小中一校になっている。それくらいです。安心して暮らせる環境じゃないですよ。やっぱりいわきにしちゃいますよ」
 なるほど。ありがとうございました。
 伝承館は一度チケットを買ったら自由に出入りができる。俺は遠くに見える防潮堤が気になる。あの先の海が見たいと延々歩きはじめた。ひどく何もない土地に舗装された道が延びる。時折、ダンプカーが通り抜ける。自転車を漕ぐヒトともすれ違ったが、あなたは一体どこから来たのかしら。そんなことを思ったのはお互い様だったろう。更地の向こうに崩れた日本家屋が一件だけ建っていた。震災遺構として残しているのか。「儂の土地は勝手に立ち入ることを許さん」というカミナリ親父の家なのか。俺には想像することしかできない。そして、防潮堤に上がれば太平洋が広がった。思っていた以上のインパクトはなかった。いわきで見た薄磯海岸の感動を期待していたのだが。そして、視線を南のほうへと運ぶが、イチエフの姿を拝むことはできなかった。強い風に背を向けて、引き返すことにした。
 昼飯は伝承館の向かいにある「双葉町産業交流センター(F-BICC)」。そこには土産物屋や食堂がある。平日ではあったが食堂はにぎわっていた。それは皆、老夫の言っていた工事現場の兄ちゃんたちだ。俺は鯖の塩焼き定食。小僧はもれなく唐揚げ定食だ。そこでは「幻の黄金柑」なる柑橘が販売されており、定食にもひとかけの黄金柑が添えてあった。
「これレモンじゃないからね」
 鯖の塩焼きにはレモンが添えられ、小皿で黄金柑が置かれておいた。それは柚子のように香りが豊かでさわやかな甘さ、その名にふさわしい柑橘であった。一口で小僧が嵌まる。隣の土産物屋にはダルマや赤べこなども売られていたが、土産は一袋に小粒の柑橘が10程度入った「幻の黄金柑」に決まる。ふくしまの特産物ではないらしい。それでも双葉町での出会いだと解釈しよう。
 15時からタクシーツアーを予約していた。その存在を知ったのはツイッターだったけれど、どうして辿り着いたのかは覚えていない。伝承館で午後の講話を聴いたら夜ノ森の桜並木を歩きたいと思っていた。はじめは双葉駅まで歩いて戻って常磐線で夜ノ森駅に出ることも考えていた。しかし、タイミングのいい電車がそう何本も走っているわけではない。夜ノ森で途中下車をして、桜を見たらまた電車に乗る。そんなことをしていても時間の無駄だよな。そして、伝承館と桜を見るだけで終わってしまうというのもなんだかな。どうも手の込んだ作り物だけを見せられているような。俺がここまで足を運ぼうとした衝動を満たしてくれるものではないように思えた。不謹慎だと言われようと、きれいに飾られ、上手に切り取った町の姿など見たくはなかった。
 それでも夜ノ森の桜が見たいという思いはあった。渋谷イメージフォーラムで見たあのドキュメンタリー映画において、あそこが一つの舞台となっていたのだ。定点観測の力強さ。10年ほど桜の季節の移り変わりを映し続けた。震災直後、誰もいない無人の桜並木。鳥の囀りさえ聞かなくなった。本当だろうか。見えない放射線の異常を鳥たちは察知するのか。虫は紫外線が見えているというけれど、ガンマ線が見えている生物の話は聞かない。やがて、ミツバチが帰り、野鳥が帰り、少しづつ人々が帰ってくる。それでも、そこを訪ねる者はかつての住人ではない。中には俺のように興味本位で県外から足を運んだものもいたろう。
 伝承館の駐車場に設置された線量計は0.06マイクロシーベルトという数字を表示していた。そして、タクシーが1台停車している。あれだろうなと察しはついた。ドライバーもあいつらだろうなと感づいたのだろう。車両から降りて出迎えてくれえた。タクシーツアーというものははじめてだ。挨拶を交わして、早速、車に乗り込む。はじめに、どこから来たのか、どこに行きたいのか、質問を受ける。一時間程度のツアーとは言え、密室でしばらく共に時間を過ごすのだ。どこの馬の骨ともわからないやつらが黙って後ろに座っていても気味が悪いだろう。俺は簡単に自己紹介とふくしまに来たことははじめてだと告げる。そして、まずは無難に夜ノ森の桜が見たいと伝えた。続いて、伝えるべきか迷った挙句、口を開く。かつて大学の先輩にも言われていたんだよ。やるかやらないか迷ったことはやっておけって。
「福島第一原発に近づくことってできるんですか?」
 答えはノーだった。実際、鉄塔と電線路が丘の向こうに延びているところは見えても、テレビで見たような原子炉建屋なんてどこからも拝むことはできなかった。
 ツアーははじまる。俺が何を見たがっているのかは察してくれたようだ。桜を見る前に、住民のいない町を案内してくれた。崩れ落ちた商店、資生堂の看板の張り付いたあの建物ならメディアで見た覚えがある。建物の解体がされていないところは除染もはじまらないそうだ。中には持ち主が誰なのかも分からない家だってあるという。突如あらわれる線量計が0.6という数字を表示している。
「0.6ぅ?」
「ここに住むのは不可能ということですね」
 大熊駅前に辿り着けば、駅前はきれいに整備がされていた。復興住宅も建てらえれているようだ。それでももとの住民は帰ってこない。新たな住民を如何に呼び込むかが復興のカギだという。なんでも移住者には5年以上住む場合に限って200万円以上の補助金が支給されるという制度があるそうだ。今年度、認定こども園と義務教育学校、預かり保育、学童保育を一体にした「学び舎ゆめの森」が開校する。
 開店直後に震災にあって盗難被害も多かったケーズデンキを過ぎると、建屋がボロボロになったシマムラが現われる。タクシーを停めて、割れたガラスから店内を覗きこめば、衣類などの商品が床に散らばったまま12年が経過した様子を残している。隣にはトヨタの店舗があったそうだが、こっちは全くの更地だ。震災遺構として残そうとしているのか、資金力の違いによるものか。
 富岡町に入ると桜が広がる。夜ノ森の桜並木は思っていた以上に範囲が広い。そして、南側の桜のトンネルになっている並木道でタクシーを停めていただいた。映画では誰もいない様子ばかりを見ていたが、今では車の通りもあり、カメラを持って多くの人たちがシャッターを切っていた。屋台がぽつんと一件、腹が減っていたわけでもないが、少しでも金を落として行きたい気分だ。小僧はお好み焼きを狙っている様子があったが、味噌ダレの串団子にしておいた。
 再びタクシーに乗り込み、法泉寺の紅枝垂れ桜を拝む。推定樹齢約900年、高さ12.5メートル、幹回り5メートルの以上の巨木。町の天然記念物に指定されているそうだ。桜を見て回って気持ちも穏やかになったところで、最後は富岡駅に下ろしてもらうことにした。電車が来るまでに一時間近くはあるが、富岡駅は常磐線の中でも海寄りの駅で、富岡漁港まで歩いていける距離だった。
「それなら漁港まで行きましょうか?」
 ツアーの終着地は富岡漁港となった。風が強く、まだ船が三隻ほどしか停泊していない閑散とした漁港であった。
「あれ福島第二ですよね?」
 気を悪くしないか気にしつつも確認する。こちらは建屋と煙突のようなものがはっきりと見えている。福島第一原子力発電所と同様に地震・津波の被害を受けたが、炉心損傷に至ることなく全号機の冷温停止を達成した。
 陽が傾いてきた。小僧にカメラを向けるとセカイは真っ白だ。
「逆光だな」
「俺は逆光、ここは漁港」
「なにそれ?ラップ?」
 いわき、双葉、富岡と防潮堤を乗り越えて海を眺めてきた。俺が普段眺めてきた東京湾に比べて遥かに雄大で海風も強い。眺めるならば、いわきの海がよかったな。無人駅に列車が滑り込んでくる。帰りもボックスシートに座り、いわきのホテルに戻ることにした。
「夕飯、つけ麺でいいんだよな」
 それは昨日の昼飯になる予定だった。いわきに本店を構えるつけ麺屋があるのだ。生憎、平日の昼間はやっていないようで、夕飯に食うということになった。ここまで来てつけ麺でいいのか。とは言え、昨日は焼肉だった。浜通りに来たら何を食うべきなのか。朝食には「メヒカリの唐揚げ」をいただいたが、結局、ガッツリ夜に食べる浜通りグルメを調べることがなかった。小僧が焼肉を食いたいと言ったから。そして、小僧が生まれて此の方つけ麺を食ったことがないと言ったから。あいつのつけ麺デビューは「つけ麺まるや」いわき本店となるのだ。ちなみに東京駅の立ち食い蕎麦もデビュー戦だった。
 ホテルの帰りに缶チューハイを購入。大浴場で疲れを癒したら一杯やって寝る。
 
 翌朝、常磐線を南下して生まれ故郷を目指した。老いた父母に愛想の悪くなった孫のエナジーを注入するためだ。そこで俺の爺さんがふくしま生まれだということを再確認した。確かに新地という地名は何度か聞いていた。それでも、そいつがどの辺りであるのか、今まで調べようとも思うことがなかった。相馬郡新地町。そこは浜通りの終着地だ。

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