見出し画像

コラージュ・ルポルタージュ

 東京駅近くの小さな画廊、割といい頻度で山下菊二の作品展が開催されている。時折思い出したように「山下菊二」とSNSを検索すれば、その画廊の情報にぶつかる。そんな時は比較的仕事に余裕のある時期で、有給休暇をとってはふらふら足を運ぶ。
「へーさん、へをひれ、ぷっとひれ」
 仕事で出向く機会などない千代田区、先ずは農林水産省の食堂で鯨肉を食らう。汗して働く役人でも見物してやろうと企むが、意外とそれらしき人間よりカジュアルな男女が多い。腹が動き出したら便所へ向かう。人間は陶器から食べて陶器へ出すものだって。
 東京地裁の傍聴抽選に並ぶ。中身はなんだってよかった。肝っ玉の小さい俺にギャンブルの趣味はないが、抽選で傍聴券を手にした時の快感はたまらない。柵で仕切られた法廷内の儀式的なやり取りは、無料で見られる芝居としては上等だ。裁判官が現われると礼ではじまる。儀式に順ずる少しの緊張感もまた一興。しかし、今回はどうやらハズレくじだったようだ。裁判官の注文通りに原告が淡々と話しをするばかり。被告席は無言を貫き、なんの議論もなく幕が下りた。この訴えはまだ裁判に至っていないのだという。原告適格があるとかないとか、次回は三か月後。
 不満を抱えたまま東京地裁を後にして、四〇分も散歩しながら画廊へ向かう。国会議事堂、皇居外苑、何度か歩いた道ではあるが、芝居小屋を想像するだけで飽きない。
 山下菊二の作品は大きく二つに分かれる。あの小さな画廊では、前期の油彩と後期のコラージュを交互に展示していた。今回がコラージュ展だと知ると、どこか損したような気持ちになる。コラージュなどというものが本当に芸術なのかしらと訝っている。自分がまだ餓鬼だった頃を思い返していた。親父が買ってくる『週刊ビッグコミックスピリッツ』のコマを切り抜いて、いい加減な物語を再構築する。あの頃、そんな創造紛いが何より楽しかった。
 陰鬱で不可思議、観るものを圧倒する山下の油彩。なぜコラージュせざるを得なくなったのか。切り貼りしてみたら楽しかったという俺と同じ気持ちも少なからずあったのではないか。最近になってその切実な背景を知った。それは国立(くにたち)で開かれた、警察車両の並ぶ仰々しい展示会だった。

 宿痾としての山下の脊髄性進行性筋萎縮症は、一九七〇年ごろから急激に悪化し、油彩制作を困難なものにした。ことばを奪われたに等しい状況で、山下は、戦時下での悪夢にうなされる日々が続いた。そのなかで手に入れた表現が、本作品にみられるコラージュであり、切り取られた数葉の○○こそ、××云々そのものである。

 散歩を終えて、平日の小さな画廊にたどり着く。いつもの通り誰もいない真っ白な箱。半球形のオブジェに僅かな気配。壁三面に一五点程度のコラージュが並ぶ。箱の中ほどに立って目を閉じる。両の耳に手を添える。

「へーさん、へをひれ、ぷっとひれ」
 囃しながら歩き出す幼少のわたし。
「僕は軍人大好きよ、今に大きくなったら、勲章つけて剣さげて…」
 ものごころがつくと、大声をはりあげて、戦争ごっこに打ち興ずる少年として育ちました。
「女は穢らわしいから征伐するんじゃ」
 ガキ大将が声をはりあげれば、その号令一下、集めておいた馬糞や石をいっせいに投げつけては一目散に逃げだします。道に迷って通りかかった農家の庭に、筵を日干しにしていた人のよさそうな老人が一人。近づこうと新聞紙をまたげば突然の大声にびっくりさせられました。
「生神様の天子様を踏みつけるとはなにごとだ!罰あたりめが!」
 足元を見ると、白い馬にまたがった大元帥の写真が、靴先からのぞいているではないか。
「絵の勉強をするんだったら、東京にいかなければ駄目だぞ。学校にいかなくても、いろいろと独学をする方法もある」
 駄目だということはわかっていながら、もう一度両親に泣きつきました。
「それならいっそ、中国大陸に渡り、パリを目指せばいいではないか」
 母は肩からかけるようになった小さな布袋を作ってくれました。
「この袋の中に三社の土を入れて、肌身離さず持っていて、もし戦地で、難儀な病気などで困ったときに嘗めるとよいから」
 子どもの頃は、本殿の裏で小便をするとちんぽが腫れると言いつつ用を足した。そのあたりをさけ、よさそうなところの土をおしいただきました。
「生きて帰ってこられたら帰っておくれ」
 母は何故「死なずに帰ってこいと」と言ってくれなかったのか。
《この部落は日本の憲兵隊によって宣撫されているので、徴発など一切の行為を禁ず》
 老人が握る竿の小旗にはニホンノコトバが記されていました。それでも上等兵は一向に耳を貸そうとしないばかりか、その老人を殴る蹴るの暴行をくわえ牛や豚を掠奪したのでした。
「命をかけた行為とはなんだろうか。何のためにだったら本当に死ねるのだろうか」
 殺しの日常が問いかけます。老人の死は、幼少期のわたしを感動させたへーさんの勇気あるダイナマイト自殺を踏み越えたところの《死》というものを、突きつけました。
「そうだ、そのとうりだ!」
 血糊でおおわれた大地の底からの声。わたしはか細い声で、あの絶対的な命令の軍隊では、どうしたって仕方なくやらざるを得なかったのだと、自分を弁護しようとします。
「おまえはその老人の行為を心の中の美しい出来事として心に留めておくだけで、人が殺されようとしているとき、自分は手も汚さずに救ってやろうなどと考えるだけなら、最初から何もできませんと手を上げる」
 小さい時から、天皇の赤子として恥ずかしくない生きものとなるよう教育されてきたのですから。
「もしおまえが本当に人間らしい生き方をしようと思うならば、おまえは他民族を圧殺しようとしている皇軍の手下になることを拒否することができるのか!」
 手足を縛られた逃亡者の首より下が、くねくねと叩き込まれるように、その穴の中に土とともに搗き固められて、首だけが地表にぽつんと置かれたように埋めらました。
「おまえがはっきりと拒否の行動をとることによって、どのような苦境に、そして死につながるということを知っていれば知っているほど、その決断には大変な勇気を必要とするのだ!」
 その頭から、鼻を、そして耳を、順番に手渡しされる刀のように切れる兵器用シャベルで、この手で切り落とさなければならないのだと思うだけで体内から消えてゆく気力とは反対に、反抗的な私の視力は、遥かな地平線を射竦めるほどに冴えわたっていて、その逃亡者の眼球の中で方向転換をして、絶対に許せない者に与える視線でもって、私の心臓を射ち抜いてしまっているだろうに…シャベルは打ち下ろされていた。 
「適切な方法で行動にうつしたとしても、そこにはその行為が人間性に深く根ざしていればいるほど、大きく自己が犠牲にならなければならないということを、国家権力はお前に叩きつけるのだぞ!」
 《天皇の軍隊》に魂を売りわたしたわたしは、そのような非道いことをしても、非道いことをしているとは思うことのできない人間の姿をかりた生き物になっていました。
「そこでは戦場で対峙する敵との距離の遠い近いによって、勇気の度合いに差があるなどということを超えてしまった次元の、確固とした信念がなければならないのだ!」
 がっくりと折った首の上から、馬の寝藁がかけられ、その上に石油がふりかけられて火がつけられた。焼けぼっくりのようになった鼻の穴が「フー」と灰まじりの怨気を吐くのをわたしは見ました。

 脂汗を垂らしながら画廊をあとにする。嗚呼、明日にはまた労働が待っている。農地を耕すトラクターは有事になれば戦車へと生まれ変わった。化学肥料の開発によって空気中の窒素を固定化することを可能とし、火薬が生まれた。ドローンだって四つ足のロボット犬だって次々に死の商品へと姿を変える。この戦争しやすい仕組みについて考えながら、明日の労働を拒否する理由を探っている。
 特別軍事作戦と呼ぶことにしたウクライナ侵攻が続く。カメラを前にした各国の老人たちは戦火を絶やさぬよう油を注ぎ続ける。世界的な軍事振興がはじまる前、一席ぶったプチーンの言葉に二つほどお気に入りの箇所がある。

 世界覇権を求める者たちは、公然と、平然と、そしてここを強調したいのだが、何の根拠もなく、私たちロシアを敵国と呼ぶ。確かに彼らは現在、金融、科学技術、軍事において大きな力を有している。それを私たちは知っているし、経済分野において常に私たちに対して向けられている脅威を客観的に評価している。そしてまた、こうした厚かましい恒久的な恐喝に対抗する自国の力についても。

 ロシア語なんか《スパシーバ》と《ニェット・ヴァィニェ》しか知らない。プーチンの声を読み解けるはずもない。日本放送協会のニュースサイトを信用しているのだよ。

 しかし謙遜する必要はない。アメリカは依然として偉大な国であり、システムを作り出す大国だ。その衛星国はすべて、おとなしく従順に言うことを聞き、どんなことにでも同調するだけではない。それどころか行動をまねし、提示されたルールを熱狂的に受け入れてもいる。だから、アメリカが自分のイメージどおりに形成した、いわゆる西側陣営全体が、まさに「うその帝国」であると、確信を持って言えるのには、それなりの理由があるのだ。

 列車に揺られ、明日の労働を拒否する理由がどこかに隠されているのではないかと、先人たちの言葉を反芻する。労働はできる限り拒否したい。そいつは面倒くさくて仕方がない。休み明けにやらなければならない労働は決まっている。やってやれない労働ではない。そして恵まれたことに正社員だ。そして恵まれたことに日本の平均年収よりやや高い。上の中ではないが、中の上だよ。
「そうだ。おまえは恵まれている」
「そうか。おれは恵まれているか」
 老若男女、LGBTQ+、VWXYZ。そんな中で誰よりも好待遇とされる中年男性。なにより忌み嫌われる中年男性。老人が起こした戦争によって、若者たちを戦場へ送り込む中年男性。
 話に聞くばかり、資料で読むばかり、映像で見るばかりで臭いのないの出来事が目の前を通り過ぎていく。「おまえは恵まれている」と、念を押されて押し黙る。俺には労働の面倒くささを上回るほどの重荷が背負わされていない。
「何が社会貢献かって、会社が儲かって納税することが一番の社会貢献なんですよ」
 目をキラキラさせて述べる役員ども。あのひとたちはなんでそんなことをしゃべりはじめたのだろう。こちらからなにを尋ねたわけでもなかった。社会に貢献することが大人として素晴らしいのだという発想がある。金儲けをしたいだけではないのだという主張が必要である。そして、そいつが俺のような輩に労働意欲を掻き立て、《恵まれている》と納得させるに好適だと考える。社会貢献のための労働、解放のための軍事振興、前置きしなければ行動が起こしにくい時、その前置きが間違えであることを誰より当人が理解している。
 嗚呼。それにしても労働は面倒くさい。俺にも気の利いた前置きをくれよ。最近では節々が傷んで仕方がない。一日立ち仕事はしんどいと言っていたコロナ渦以前。近年では一日座り仕事でしんどい。休日には地面を踏みしめながら買い物へ出向く。歩くことがレクリエーションだと思えるようになったのはいつからだ。「散歩に行こう」などと言われて心躍らせる餓鬼はいない。手をつないで女と歩くようになってからかしら。花を見るためだけ、電飾を見るためだけ、そんなためだけに街を歩くことも悪くないと思うようになれたのは色恋がきっかけだったような気がする。
 なにより忌み嫌われる中年男性となった今、女と肩を並べることもなく、むしろ孤独に《歩く》を嗜むようになった。折角の有給休暇だというのに四〇分も歩き通すという体たらく。こいつを本当に休暇と呼ぶのか。裁判傍聴だってレクリエーションだったか。美味くもない鯨肉になんの愉悦を得たか。
 帰途の車窓に西日が差しはじめる。俺は有意義な有給休暇を過ごすことができたのか不安で落ち込む。明日から再開される労働を拒むための心地よい前置きがまとまらない。気づけばまた労働の日々に追われているのだろう。そして、三か月もすれば、有給休暇でも申請しようかしらなんて考えはじめる自分が目に浮かぶ。
 東京駅近くの小さな画廊、割といい頻度で山下菊二の作品展が開催されている。あの陰気臭い油彩やコラージュが、わけも分からず俺を惹きつける。俺は決して優れた観覧者ではない。あの白い箱には、もう一つ重要なポイントがあった。監視カメラと思われる半球形のオブジェが置かれている。ただ一人、箱の中ほどに立って目を閉じる。両の耳に手を添える。俺はそのカメラに写り込むことでわずかな快楽を得る。その先にある、そっと覗きこんでいるような意地悪い視線を感じているとき、あれは確かにレクリエーションだった。一時だけでも解放されたような気分になれるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?