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【小説】塚山りりか氏の矜持、世界激変を添えて:第5章「共存と確執は静かに同居する」

       “2020年 慣性”

 伊治原京子はすっかりひと気のなくなった記録室で、自分の机に座っていつものように麻酔学会誌を読んでいた。隣では熊田が電子カルテを操作している。

伊治原は部下と看護師からのパワハラを訴えて以来、ついには瑠偉を完全に手術室へ出入り禁止にしていた。にも関わらず、スタッフたちには無邪気に話しかけてくるのだった。人手がなく忙しいから協力していただきたい、と。

 
 伊治原は息を呑んで学会誌をめくる手を止めた。そして驚愕した様子で隣にいた熊田に話しかけた。
「これを読んでくださるかしら?手術前に検査でコロナ陰性だった患者さんが、手術後に陽性になって、手術室がロックダウンになった病院があるんですって!怖いわ!」
 
 熊田は手を止めて、はあ、とマスク越しに気のない返事をした。顎にマスクをずらしたまま伊治原が続ける。
「この病院の手術室でも、対策を取らないといけないわ!どうしましょう!」
熊田はどうしようかと逡巡しゅんじゅんして、諄々じゅんじゅんと答えた。
「術前に陰性で、術後に陽性になる症例は以前から想定されていたので、それで、当院の手術室感染対策マニュアルは、感染リスクの一番高い気管挿管と抜管時にn95マスクと、ゴーグルもしくはフェイスシールドをする事になっています。マニュアルを作った時に、先生にも伝えたはずですが?」
伊治原はキョトンと熊田の顔を見て、それから首をかしげるとまた、学会誌に目を落とし読み始めた。

 一連の流れを休憩室で横目に見ていたりりかは熊田と目があった。熊田が肩をすくめたので、お疲れ様です、と口だけ動かして伝えた。

「ねえ、熊田さん、感染対策の事、看護師さんたちにも伝えてくださいね!」
伊治原がしばらくして念押しするように言った。熊田はそうですね、とだけ言うと、斉藤から引き継いだ感染対策業務のために会議室へ向かった。



「と、いうわけで私はバク転しそうになりました」

 この日、久しぶりに病棟会議が開催されたのだが、議題は伊治原麻酔科部長とどのように関わるか、であり必然と伊治原との会話が取り沙汰されていた。
「はあ?今さら何言ってんだ?」
静男が大声で言ったので、しぃ!と言いながら優が辺りを見回した。
「分かってるよ、てか、それがいつの情報だかわかって言ってんのか?」
「ああー、それはもういいから、で、伊治原は挿管と抜管でマスクとゴーグルなりをちゃんとしてるの?」
熊田が聞くと、看護師たちは顔を見合わせて異口同音に答えた。
 

いいえ。

熊田は大きなため息をついて、やっぱりと呟いた。
「もう、めまいがしそう!」
その言葉に明石が、休んでください、とひと声かけるとそれに看護師たちも続いた。
「ありがとう、でも愛、負けない!」
まるで往年のドラマのヒロインのように熊田が己を奮い立たせたので、会議はやんやと盛り上がっていった。

 それからしばらくして、果たして伊治原が熊田との会話を忘れた頃に、伊治原が恐れていた事が起きた。

 伊治原が、n95マスクとゴーグルをしないままで挿管し、全身麻酔をかけた患者で陽性者が発生したのだ。

 それで程なくして伊治原麻酔科部長は濃厚接触者として出勤停止となった。そしてマニュアルを遵守していなかったことと、最近の麻酔計画がぐちゃぐちゃなことで管理体制も問われることになった。

 それで急きょ、手術日程に穴が空かないようにと以前この病院の手術室に応援で来ていた麻酔科医の長谷川響子が来ることになった。
 長谷川は県内にあるグループ病院の医師であったが、この手術室看護師たちとの関係は以前から良かったので、長谷川が来ると知って手術室には安堵した雰囲気があふれた。

ただし、病院決定、グループ決定は覆されないため、伊治原は部長職に止まり、現状維持の状況であることに変わりなかった。


       ⁂
 世間は落ち着きを取り戻すことなく、次の年に向かって進んでいた。少しずつ変異株の話が散見されるようになり、この病院の感染対策室も休まることがなかった。

やがて国が新規の外国からの入国停止を決める頃、手術室のマニュアルを遵守するようにと熊田がスタッフたちに改めて言うのであった。





5章 了

次回エピローグです。

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