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【小説】塚山りりか氏の矜持、世界激変を添えて:第4章その2「激変した世界と付き合うには」

      ”2020年 憤激“

「ええ~?挿管と抜管の時にn95とゴーグルをつけるんですか?」
マニュアルの読み合わせをしていると、静男が、まさか!冗談でしょう、というような反応を見せた。
それもそのはず。n95マスクを装着する手術など、結核患者の対応以外に経験が無かった。しかも数年に一回有るか無いかの頻度だ。しかし、気管挿管や抜管の際にエアロゾルが発生するとなっては、そのようにして感染対策を強化せざるを得ないとの結論だった。

「酒田に認定看護師たちへ確認してもらったけど、術前にPCR検査で陰性でも、術後から陽性になる事例があるようだから、やっぱり念には念を入れてね。本当はフルPPEにしたいくらいよ?」
フルPPE、と静男が繰り返した。n95マスクとゴーグル以外にも全身に防護服を着る方法だ。だが、この頃にはそのような物品は発熱外来や感染症病棟に優先的に供給する事になっていたので、手術室の分は潤沢ではなかった。

「じゃあ、じょ、麻酔部長にも報告してくるから」
「あ、あの人はどうでしょうかね…」
 斉藤が自嘲気味に呟いた。星と瑠偉も頷く。熊田は困ったような顔をしたが、院内マニュアルの決定事項だから、と自分の席で熱心に麻酔学会誌をめくる伊治原に伝えるため記録室へ向かった。
「あーあ、下根先生にまたしばらく会えなくなるのかー」
瑠偉が大袈裟にわざとらしくため息をついた。
「イヤー、先生!それはオレらも同じ気持ちですよ!」
すかさず静男が合いの手を入れた。それを見ていた星が何か言おうと口を開きかけたが、PHSが鳴ったのでそれに対応すると、なにやら呼び出しだったらしく、医事課に行ってしまった。


「信じられない!」
熊田が見たことないほど怒った様子で手術場に戻ってきた。明石が慌てて、センパイ、皺が増えますよう、と言うと、
「そんなことどうでもいい!あの女!」
お口が悪いですよ熊田センパイ!と再び明石がなだめようとするが、熊田の怒りは収まらないようだった。
「なんて言ったと思う?あの女医!」
たまたまその場にいた明石、静男、りりかが顔を見合わせると、答えを聞くまでもないと、熊田が続けた。
「そんな事をするエビデンスは?ですって!現時点で世界中のどこにもないわよ!このウイルスの確固としたエビデンスなんて!この半年近く何見てたの、あの!」
あの女、とますますヒートアップする気配のみせる熊田の報告に3人はどうしたものかと互いの顔を見た。
 こんな事があるだろうか?自分達が何に対応してきたのか、麻酔科部長が何も分かっていないということが?

 やがて状況はさらに悪くなったことが様々な口を通して告げられた。再びの休校、店への時間短縮営業の要請、近隣病院での診療制限、それに伴って増加するこの病院の救急外来の受診患者。それよりもなお、手術室にとって最悪だと思われたのは、星が医事課から告げられた突然の下根太郎の応援打ち切り宣告だった。

「打ち切り?休止でなく?何の予告もなしに?」
静男が声を荒げた。
「いや、どうやら麻酔科部長には打ち切りと、それで人事調整をどうするかだいぶ前に言ったんじゃが、話が進まないけぇ、医事課がわしにどうしたらいいか確認しにきたんじゃ」
何だそれ!と静男はその報告に憤慨して、そのままの勢いで医事課まで怒鳴り込みに行った。
 しかし、程なくしてうなだれて戻ってきた。スタッフたちはその姿から、どうにもならなかったとわかった。
「…グループの上層部が、前から下根先生の応援費が高額だから切りたがってたらしい。下根先生がどれだけこの病院に貢献してるか知らないのか!」
医事課から戻ってきて、怒りの収まらない様子で静男は叫ぶように言った。
「あの女!打ち切りの話に反対もしなかった!何考えてんだ!下根先生がテメエが来るのにどれだけ調整してたか見てただろうが!」

 あんなんだから前の病院で虐められんだよ、と静男は吐き捨てると肩を怒らせたまま自分のロッカールームに去って行った。
 

 残ったスタッフたちは呆然として立ち尽くしていた。我に返った星が、慌てて下根に連絡を取りに行き、りりかたちから離れてしばらく話し込んでいたが、やがて戻ってきて、力なく話し始めた。

「下根先生、なんて言ったと思う?
 いやー退職前からちょいちょい上層部の皆さまには噛み付いてたからね~やり返されましたね~
 って笑いながら言うてた」
 怒りと悲しみの矛先をどうしたらいいのか分からない様子で星は声を詰まらせながら言った。
 悪い夢だ、打ち切りなんてきっと取り消されるだろう、そんなスタッフたちの願いもむなしく下根が再び来ることはなかった。
 

 




第4章は次回で終了です。

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