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【小説】塚山りりか氏の矜持、世界激変を添えて:第4章その3「言葉は使い方次第」

       ”2020年 鎮火“

 下根が来なくなってしばらくして、斉藤がまた病んで出勤できなくなった。そして、伊治原麻酔科部長から出勤するか退職するよう迫られた、と手術室看護師たちは瑠偉から伝え聞いた。

 n95マスクとゴーグルを装着しての気管挿管介助に慣れた頃、りりかが記録室で電子カルテを見ていると、瑠偉が伊治原に対して麻酔手技の根拠と手順について意見しているのがドアごしにうっすら聞こえた。
 詳しくは聞こえなかったが、どうやら伊治原はタジタジとしている様子だった。瑠偉はまるで研修医を厳しく指導しているかの様な口調だった。
 
 それで、最近は静男もあからさまに険悪な態度で伊治原の麻酔介助をしていることを思い出した。りりかはため息をついて立ち上がると、今日の仕事は終わったんだし、と帰り支度をしに更衣室に引っ込んだ。

 さて、2020年も終わりが見え始めた頃、ある日の部署朝礼で、星と瑠偉が神妙な面持ちで前に立った。それから互いに誰が話し始めるか譲り合った後、星が話し始めた。
「えー、この度、地元に戻って親の手伝いをすることになりました。ここの手術室はホントに居心地が良く、こんなわしでも麻酔科医として看護師さんたちも受け入れてくださって、ホントにありがとうございました」
悔しそうに深々と星は頭を下げた。そんな、先生!と静男が声をかけた。
「オレらだって先生にはたくさん助けられましたよ!」
いや、いや、と2人の間で長くかかりそうな掛け合いが始まりそうだったので、熊田が瑠偉を促した。瑠偉は重そうに口を開いた。

「来月から麻酔科医としてはここに来れなくなりました。救急医としては手術室に変わらず来ますので、今後もよろしく頼みます」
え、と看護師たちに衝撃が走ったのが分かった。いや、静男と熊田だけは前から知っていた様子だった。熊田が続けた。
「と、いうわけで、麻酔科医も減って手術室もこれから大変になると思いますが、皆さん、事故のないよう気を引き締めてやっていきましょう」
「そ、俺も麻酔以外で時々来るし!」
ケラケラと瑠偉は笑って見せた。と、静男が熊田を促した。熊田は少しためらいがちに、また話し始めた。

「えーと、原久先生が出入りに制限がかかったのと関連するのですが、副院長から、伊治原先生が手術室看護師をパワハラで訴えていると報告を受けました」

 顛末はこうだった。まず原久瑠偉に激しく意見された伊治原京子が、瑠偉が大声で怒鳴り、怖いのでどうにかしてくれと副院長に泣きついてきたという、それで話し合いがもたれたのだが、そこで瑠偉の伊治原に対する態度がパワハラと認定され、手術室への出入り制限が決まった。ついでに看護師もパワハラをするー態度が悪かったのは否めないがーと訴えてきたのだという。

 看護師たちは今までに経験したことのない事態に呆気に取られて、もはや何と返せば良いか分からない様子だった。
「…なので、これからは言動に注意してください、としか私の方では言えません。私も皆さんを守りたいので、皆さんも自衛してください。次はこんな事がない様に」

 朝礼が締められ、スタッフたちはそれぞれの担当する手術へと散っていった。りりかは担当する手術が瑠偉と同じだったので朝礼での話以外の事を聞いてみた。

「斉藤先生はどうなったんですか?」
「斉藤先生は、下根先生のいる病院に行くことになったよ。その方がいいでしょ。他の所ではうちと同じように、急な休みを取りながら働くのは難しいでしょ。下根先生がフォローできる所しか行けないんじゃない?」
それもそうだ、とりりかは思った。それから、世の中だって大変なのに、うちはどうなるのだろう、と考えずにはいられなかった。


         ⁂
蔓延した感染症が損なったのは体の健康だけではなかった。精神科や心療内科の需要が高まった他、それを裏付けるように、自殺者が増えたことも報じられた。ただ、この年は企業の内部留保のおかげか、破綻する会社は思ったより少なかった。




第4章 了

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