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【私と本】雨の日に聖コルベ記念館を訪ねた

 『女の一生』一部に続いて二部を読んだ。一部は幕末から明治にかけての物語となっていて、二部では第二次世界大戦下の、それぞれ長崎を舞台に書かれている。これは小説なわけだけど、それぞれの時代の長崎のことがよく描かれていて、物語に出てくる場所や人物をおもい浮かべられるのがいい。

 物語に出てくる実在の人物として、一部ではプティジャン神父やド・ロ神父らが有名どころである。キリスト教信仰の解禁にむけた活動や大浦天主堂の建設といった活躍をした彼らパリ外国宣教会の神父たちは、地元の人たち(おもにカトリック関係者)にとって大きな存在といえる。
 二部でのそれはポーランド人のコルベ神父やゼノ修道士で、彼らはフランシスコ会(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)に属していた。

 コルベ神父というひとは、アウシュビッツで他人の身代わりとなり獄死したことで有名だ。長崎(日本国内)に滞在していたのは6年間ほどだった。亡くなった後には、1971(昭和46)年10月17日に列福(パウロ6世)、1982(昭和57)年10月10日バチカンにおいて列聖(ヨハネ・パウロ2世)されている。
 1930年4月に来日したコルベ神父らは、はじめのころ大浦地区で宣教活動をおこなっていたが、のちに少し(5kmほど)離れた本河内ほんごうちに修道院(聖母の騎士修道院)とルルドをひらいている。もう何年も前に一度だけ訪れたことがあるけれど、写真やそのときの感覚的な記憶はどこかへ行ってしまった。じめじめした夏場で蚊に食われたことだけは覚えている。
 コルベ神父と一緒に来日したゼノ修道士は、コルベ神父が帰国したあとも長崎をはじめとし日本国内で活動を続けている。1945年には長崎で被爆しており、その後は東京で戦後の救援活動などを続け、1982年に亡くなるまで日本で過ごしている。

 日本に滞在した期間や、活動においてはゼノ修道士のほうが尽力しているようにもおもえるのだけれど、その生涯のドラマチックさからか、コルベ神父の名のほうが知られているみたいだ。たとえばラフカディオ・ハーン(小泉八雲)というひとなんかも、松江にいたのは443日間という短い期間だったにもかかわらず記念館までつくられている。人の印象というのはどうもわからない。

聖コルベ記念館にて

 なんだか本の内容からはなれていく。

 二部の主人公は「サチ子」という少女だ。サチ子のおもい人である修平は、文学を志しつつも親の希望をとりいれ慶応大学の経済学部に入学し、やがて戦争にとられていく。サチ子も修平もカトリックの教育を受けており、そのためこの時代の皇国といった国の思惑と、自身の信仰とのあいだに葛藤を抱えて生きていく。一部の「キク」の生きかたにも感じたことだけれど、人間というのはこたえを求めて外側に目をむける傾向にある。でも結局は、自分が納得できるこたえというのは自分のなかにしか見つけられない。

 この時代といま私が生きている時代というのはものすごく違うし、比べてどうといえるものではない。時代ごとに違った苦しみやしあわせがあるわけだけれど、やはり自分が置かれている状況での幸福について考えずにいられない。
 愛する人がふえるたびに、自分が弱くなるような気がする。
 そばにいられる時間が長いほどいいなどとおもって、そんなときふと、いなくなってしまったときのことを考えたりして、怖気づいてしまう。
 あるいは、相手に求めるものがどんどん大きくなり、その結果こころが離れていくこともあるかもしれない。
 そういうのって、不幸だ。
 先のことや過去をあれこれ言うことに時間や労力をつかうよりも、おなじ時間を生きられることに集中するほうがずっといい。それをおもうと(先に弱くなるような気がすると書いておきながら恐縮だけど)ちょっとだけ強くなれるようにもおもう。

 愛する人が、今日もぶじでいてくれたらいいな。
 これだって実はエゴといえるのだけれど、私の本音であるから仕方がない。

女の一生 二部・サチ子の場合


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