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まけずぎらいのわりに

 旅の途中でいくつか寄り道もしながら写真を撮った。ぴんときた場所に移動した師匠がいい構図をみつけたと言って撮りながら、私に(私が気が付かなかった構図をみつけられたことが)悔しかろ、と言った。
 とっさにというか、正直なところ悔しいという気もちは湧かなかったのでそう答えると、他の人は悔しがるのだと言った。私は悔しいよりも先に、さすがだなというふうにおもった。

 あとから、どうしてそう答え、おもったかを観察してみたところ、それはやはり師匠の構図で、その手によるものは私のすきな、師匠の写真だからだ。すきで、尊敬していて、あこがれのようなものを感じるその人の写真は、そんな気もちがどれだけ募ったところで、師匠のオリジナルだからだ。
 私が気づかなかったその構図、まだ見せてもらっていないけれど、きっとすごくすきになるとおもうのと同時に、どこかで(図々しくも)私にしか気付けないものをいつか見つけられるかもしれない、とおもっている。どうもそんなふしがある。もちろん、レベルも経験値もはるかに差があって、だから師匠の100のうちの1とかそんなものかもしれないけれど、まあとにかく。

 すきと感じるのは直感的な感覚で、理由はあとからついてくるのかもしれない。理由はつけられても、同じにはならないし、なることもできない。私のなかには他にたくさんのすきなものの要素と、すきでないものの要素が混在しているからだ。ひとはそれぞれそういうものでできている。
 そういうものはやっぱり直感で選り分けられてしまうから、どこかにオリジナル(みたいなもの)が入り込んできて、最終的に違うものになる。

 その最終形態(ある時点の)をもし認めてもらうことができたら、それはうれしいだろうとおもう。

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今日の「小声」:そうは言ってもかなり影響をうけているのは否定しません。

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