悲嘆に暮れる

本来僕が最寄駅に到着するあたりで稼働しはじめるはずの冷房はもちろん、部屋の明かりすら点いておらず、帰宅間も無くおかしいなと思うと同時に、居間にうつ伏せで倒れている彼女の姿を発見した。
故障かしら。
そう思った。動いているときは人間同然だが、電源を切ってしまうと機械にしか見えないから不思議だ。四肢から力が抜けた様は猫の死骸というよりは障害物に引っかかったまま力尽きたルンバを連想させる。それゆえ、倒れている彼女をみても驚かなかったが、彼女を無理やり表向きにひっくり返した際、閉じきっているものと思いこんでいた彼女の目が開閉しするばかりか、涙まで流していることに気づいたときには文字通り、仰天した。

「一体どうしたの」
彼女を購入して以来、ココアを自分で作ったのは初めてである。今日の彼女には夕飯を作る元気もないのだろうかと心配になる。
元気?
なぜ自分がロボットの機嫌をとらねばならないのだろう。ロボットの元気とはすなわち、電気エネルギーのことであって、気分がいいとか悪いとか、そういう人間的な面倒くささとは無縁のところにあるべきものではないのか。
「一体なぜ、泣いているの」
再び問う。彼女は、涙を両目からこぼしたまま、ココアをかき混ぜながら、首を左右に振って言った。
「私、泣いているの?」
「泣いてるよ。目から涙が」
「私、ロボットなのに」
「そう、君はロボットなのに」
「これが泣くってことなのね」

彼女は、家事を行うために作られたロボットなのだが、ディープラーニングとかいう技術の発達によってわりと高度な会話もできるし、こちらがその気になりさえすればだが、本物の恋人と関係を築いているような錯覚を抱ける程度のレベルには、人間に近い。しかしこのディープラーニングというのが厄介で、節操なしに余計な情報、例えば悪意を持ってばら撒かれたインターネット上のデマなんか、を拾ってきてしまうことが稀にある。今回はきっと、わかりやすく言うなら、本来必要のない「泣く」という行為をどこかからうっかりダウンロードしてきてしまったのだろう。

「泣き続けたら錆びちゃうのかしら、私」
「わからないけれど、泣きはじめてしまったときに君にできるのは、泣くという行為を忘れるか、泣き止むという行為を覚えるかの二択だよ」
「忘れようと思ってなにかを忘れたり、覚えようと思ってなにかを覚えたりしたことは、ないのよ私」
目の前のロボットは本当に悲嘆にくれているようだった。実際、泣いているわけだし。泣くという行為を忘れさせるためには、彼女を初期化する必要があり、それは作るべき料理、畳むべき洗濯物、等々今までちょっとずつ積み重ねてきたことをまた一から教え込まねばならないわけで、七面倒くさい。こうなったら、泣き止むヒントを探さねばならない。
「君が、泣きはじめたときの状況を教えてよ」
タオルを持ってきて、顔にまみれた涙を拭いてやりながら話を聞く。
「ニュースを読んでいたの。女性の人権に関するニュース」
「うーん。同じ女性として同情した?」
こんなこと言っちゃダメなんだけど、昔からある類のニュースだ。今さら?
「ううん。同情って、まだしたことないし。ある人権団体のスローガンがね、『私たちはロボットではない』だったの」
そう言って、さめざめと泣く。なるほど。たしかにロボットが軽んじられた言い草だ。
しかし、そんなに傷つくことなんだろうか。君は人権が欲しいのかい?悲痛な表情の彼女にそんな言葉を投げかけるわけにもいかず、どうしたものかと困ってしまった。ロボットの気持ちは人間の想像には手に負えない。

もう、とにかく落ち着くまで見守るしかないのではなかろうか。言葉の通じない赤子と同じように。効果があるのかないのか、背中をさすってみる。人間の背中はどんな感触だっただろうか。しばらく他人の身体に触れていないような気がする。彼女は僕の作ったココアをすする。僕も自分の分のココアをすする。
「甘っ」
発したのは彼女の方だ。口ではそう言うけれど、甘いって、どんな感じだか知ってるの?

「私って、なんで生まれてきたの」
まだ涙を流しながら、僕を見つめる。濡れた眼差し。大人になった僕たちは、こんな瞳で人と見つめ合うことを忘れてしまった。さて、この子と我々、どちらが人間的なのだろう。悲しいから泣いているのではなくて、この人は、怒っているのかもしれない。
「それは、僕が、君に会いたかったからだよ」
そんな適当な文句を、適当な文句といえど慎重に、ゆっくりと言ってみる。無垢で可哀想なロボットはキョトンとして、それから自分の涙が止まったことを確認した。僕は彼女が人間だったら良かったのに、まるで映画のようで、と思う気持ちを無視しようと努力した。

#小説 #掌編小説 #短編小説 #SF

💙