iについて

一般的な単行本よりはひと回り小さいその本を眺める。薄い水色の表紙は撫でると硬く、ひんやりとしている。自費出版なので装丁にもこだわることができるのだろう。タイトルが金色の文字で入っている。著者名は英小文字の"i"一文字のみ。本名が"愛"なのだ。
「"i"ってやっぱり虚しいもの?」
初対面で僕が理系だと知ったiは尋ねた。虚数iと一般名詞の愛と、そして自分の名前をかけたジョークだったのだろう。
「たとえ存在する実感が抱けなかったとしても重要なものだよ」
これが僕の答えだ。どちらかというと虚数についての説明だったが、愛に関して語るとしても似たような言葉を選ぶだろう。

「読んでくれたのね」
本の表紙と似たような色のシャツにすっきりとした黒の長ズボン、一年前は長かったのをばっさり顎の位置で切りそろえた黒髪に、黒のベレー帽という出で立ちで現れたiは、僕の家のリビングルームでくつろいだ様子を見せると、ローテーブルの上の彼女自身が送りつけてきたその本を眺めた。
「読むよ、そりゃ」

吸血鬼の女に恋をする、男の一人称語りの小説である。男は自らの血を女に与えてでも、女と運命を共にしたいと思っている。心から愛しているのだ。女はそれを拒む。他の人に恋をしているから。しかし彼女の恋も苦難の末、実らない。そんな状態が長々と続いたある日、男の元に女がやってくる。
「やっと気づいたわ」
女は言う。
「本当に大切な人は近くにいる」
女は男を見つめる。男はようやく女を抱きしめることが叶う。このときの男の心情は描かれないまま、物語は少々突飛な印象を残して終わる。

女が吸血鬼である必然性もよくわからないし、構成としても、だらだらとしていてとてもプロの小説家には届かないが、彼女の誠実さと切実さが丁寧に陳列された良い小説だと僕は思っている。彼女は年に一度、こうして自作の小説を本にしたものを僕になんの前触れもなく郵送して寄越し、その度に読み終わった僕から連絡して年に一度だけ会うのだ。

ソファに座る彼女に冷えた紅茶のグラスとチーズケーキの乗った皿をサーブする。これも僕たちのしきたりで、特に手製のケーキはひどくiのお気に入りで、うっかり忘れると恨まれるほどである。
「感想いただく前に食べていい?」
小動物のような一対の真っ黒な瞳はこちらを見据えているものの、答えをきく前からフォークはケーキに突き刺さっている。
「どうぞ。でもその前に、シャツのボタン取れてるからつけてあげるよ」
ちょうど似たような白いボタンがうちにあったはずだ。iはフォークを置いて、取れたボタンの位置を確認すると、するするとシャツを脱いで僕に手渡した。僕はため息をついてからシャツを受け取って裁縫道具を探し始めた。iは再びフォークをひらりと動かして、ブラジャー姿のままチーズケーキを口に運ぶことに成功した。

吸血鬼が出てくるからと言って、ファンタジー小説かと問われると違う気がする。そもそもiはこれまでに4回も本を僕に送りつけてきているが、女が異星人だったり、武家の娘だったりと変わることがあっても大きなストーリーはほとんど変わらない。こちらのことを友だちとしか思っていなかったはずの女が、最後の最後にふと主人公の方を向く。そこで物語が終わる。恋愛小説。おとぎ話といってもいいだろう。

iを好きな僕の気持ちがからかわれているのだろうかと、よく疑う。物語の中で、女が他の人(小説によって女だったり男だったりするのだが)に恋する描写があるたびに、僕はiの想い人のことを思って苦しくなる。iは長いこと、ある女性に叶わぬ恋をしている。主人公の男が作中で読む小説や聴く音楽は、かなり僕に寄せられているように思われる。縫い付ける針を動かしながら、紅茶をぐいと飲む彼女の横顔を盗みみた。5年も前の話とは言えど、一度愛を告白してきた男の前でなぜ下着を晒せるのだろう。答えは簡単で、僕のことを何とも思っていないから。ではなぜ、僕に似た主人公に好きな女性、僕にとってのiが振り向いてくれる小説を読ませて感想を求めるのだろう。サディストだから。否。しかし答えはわからない。

「宇宙の外側がどうのって、どういうこと?」
ボタンをつけ終わったシャツを返してやると、ちょうどiはケーキを平らげたところだった。
「ありがとう」
iはシャツに腕を通しながら、小説に関する僕の質問に答える。小説の中で女が主人公に対して、宇宙の話をしだす場面について。
「視点を変えるの。自分以外の部分が、すべて宇宙だとするじゃない。そうすると自分の表面、例えば手のひらの皮膚とかって、自分と宇宙の境目でしょ」
iは自分の左手の手のひらを、右手の人差し指でくるりと撫でる。
「ってことは、皮膚の中身は宇宙ではない。宇宙の外側ってことにならない?」
「なるほど」
「宇宙の果てがどこなのかって議論がよくあるけど、自分の中なんだよ。人間は宇宙の中でひとりぼっちって言うけど、それどころか一人一人が宇宙の果てを内包してるの」
「だから人間はみんな孤独ってこと?」
「そう、だから吸血鬼は血を吸うの。宇宙の果て同士、物理的に交わるために」

小説の中で、吸血鬼は自分の恋をあきらめる。誰かの血を吸わないと死んでしまうから、血を捧げてくれる主人公に心を決めなければならなかった。恋と命を天秤にかける。命を選んだことを作者は否定も肯定もしない。その前に物語を終えてしまうから。

「好きだよ」
小説、と付け加える。
「ありがとう。あなたにそう言われると安心する」
結局iはこの言葉がききたくて年に一度僕の家を訪れケーキを食べるのだ。それだけの関係。僕は本の感想以外ではiに自分から連絡しないことに決めているし、iから連絡が来ることもない。ケーキを焼いたり、ボタンをつけてやったり、僕の血液を彼女に流そうとする努力は、彼女には見えていない。
「Rさんにも読んでもらったの?」
iの好きな人。虚数iに対する実数R。
「んー、まあね」
僕には向けられたことのない、笑顔とも困った顔とも似つかぬ表情をみせる。

ああ。ふと思う。小説の語り手の男は、僕なんかではなくて、Rを想うi本人なのではないだろうか?作中で女が恋する相手がRの想い人。Rは結末、死ぬよりは、とiを選ぶ。そんなようなことをiはそれを望み、小説に託す。iは、Rに血を与えたがっている。

現実ではRはiを選ばなくたって死なない。iはつれないRにあきらめがつけられない。そんなiを僕はどうあきらめたら良いのか見当がつかない。もしかしたらそんな僕のことを好きでいる人が世の中のどこかにいるのかもしれない。僕はそれに気づけないし、気づいたとしてその人を好きになることなんてできない。RはRで、やりきれぬ愛を持て余しているのかもしれない。きっとどこかで誰かが、もしくは誰かの愛が、あるいは宇宙の果てにおいて、死ななければならないのだ。

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