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『春の夜のはなし』

きょう、ぼくはぼくをころした。
ないぞうをえぐりだして、みんなにみせてやった。
みんなはへいきなかおしてた。
こんなにてがまっかなのに、こんなにいたいのに。
みんなはへいきなかおしてた。
しょうじき、これにはおどろいた。

と、ここまで書いて彼はペンを置いた。
時刻は午前2時をまわっていた。いったいどれくらい机に向かっていたのだろう。喉がカラカラだった。腰が鈍く痛んだ。頭の中は空っぽで、もう何も考えることが出来なかった。しかしもう少し書きたい。思考という果汁を、最後の一滴まで絞り出したかった。ここからが本番だ。彼はそのことをよく理解していた。
「さて」彼は上半身を思いきり伸ばした。すべてがリセットされていくのがわかった。思考の残滓が一気に流れ出した。わるくない。今日の自分はわるくない。それはある種の経のような響きを持っていた。わるくない。言葉は彼の身体中に、部屋の隅々に、染み込み込んでいった。窓が音を立てた。風だ。今日は風が強いのか。窓の外には東京タワーが見える。タワーは静かに東京を照らしている。いつからだっけ、0時を過ぎても消灯されなくなったのは。「東京タワーをながめる男女」どこかで読んだ雑誌の一文が頭に浮かんだ。なにをするんだっけ。頭が占拠されていくのがわかった。春のあたたかい日だった。2人は午後4時にホテルにやってきた。食事を取って酒をのんで泡風呂につかった。バスローブに着替えてシャンパンで乾杯をした。そして窓から東京タワーをながめたのだ。そう、わるくないのだ。わるくなかったのだ。太鼓の音がした。どこからか。太鼓?どうしてこんなときに。いや、こんなところで。かすかに声も聞こえてくる。太鼓の音は少しずつ大きくなっているのがわかった。というよりは近づいてきていた。声がその輪郭を濃くしているのがわかった。経。たしかに声は経を唱えている。あっという間に、太鼓は目の前で鳴り響いている。姿は見えない。鳴っている。鳴り響いている。一定のリズムで。経に合わせて。摩訶般若波羅蜜多心経 聞こえてくる 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 聞こえてくる 照見五蘊皆空度一切苦厄 聞こえてくる 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是  空に浮かぶ巨大な飛行船 舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減  ネオンが照らしている 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 たしかに見える 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界  無無明 光り輝くビルの看板に 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 刻まれた6文字 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃  三世諸仏 聞こえてくる 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  ほら、そこいら中に 故知般若波羅蜜多 声が 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 聞こえてくる 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 聞こえてきた

と、ここまで書いて彼はペンを置いた。
春のおだやかな夜である。

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