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「いつか」という戯言へ




ある言葉を言われた時から、しばらく私はその言葉に囚われ続けていた。あれから心情の変化は幾度となくあった。数年経った今でも、ふと思い出してしまう時がある。


「なんてことを言ってくれたんだ、人生狂わされた、本当に最悪」って思っていた時もあったし、「私があんなことを言わなければこんな結末にならなかったのに、何で別れてしまったんだろう」って思っていた時もあった。

言った本人はきっと、その時は本気だったんだと思う。生半可な気持ちだったとしても、考えずにパッと言葉を出すような人じゃないことをわかっているからこそ、私はその瞬間のことを何気なく適当に思い過ごすことができなかったし、期待もしてしまっていた。

でも同時に、この仕打ちは当たり前のことだと思った。あんなに大切にしてくれたあの人の言葉や態度を、幾度となく無下にするような行為を私はしていた。何度も言葉をひっくり返し、向き合うことを避けた。してもらったことは思い出せるのに、自分がしたことは何一つ思い出すことができない。数年経った今も思い悩むのは、当たり前の罰じゃないか?とも思った。


過去の出来事や言葉に対して、今思うのは、お互いその時の精一杯だったということ。その時本気で思っていたからこそ、「いつか」や「永遠」が絶対にあると信じていたからこそ出た言葉だったはず。状況や生活や環境で、人の気持ちなんていくらでも変わってしまうものだと思う。素敵な出来事があれば、そっちに気が向いてしまうのは当たり前で、日々の経験で考えが変わることも当たり前で、私だってそうだから。

「ずっと一緒にいようね」も「いつか一緒になろうよ」も、あの時の言葉は今無意味な言葉になってしまった。それに片方が囚われてしまっていても、2人の気持ちが向き合わなければ、重なることは永遠にない。

永遠を語ることは、来世でまた出会いたいと可能性を示すよりも残酷なこと。人の気持ちを完全に読み取ることが難しいのと同じくらい、人の考えが不変であれと願うことは難しいこと。


だから、過去を振り返ってあれこれ思い悩み後悔するよりも、これからの未来が楽しみだなと思える大切な人と、楽しく日々を過ごしたい。

今、過去の出来事に対して、何かできることは、もう何もない。もう今のあの人にしか訴えることはできないし、あの時のあの人は今のあの人とはもう違う。今のあの人には、今の生活があり、私にも今の生活がある。過去の自分がしてしまったことを償うように、今の相手に向き合うことができたら、その言葉に傷ついた自分も、過去に傷つけてしまったあの人のことも、今の大切な人にも誠実に向き合えていることになるんじゃないかなと思う。

ずっとやいつかという戯言で、大切な人を傷つけることがないようにしたいし、過度に傷つくこともしたくない。もし離れてしまう時が来たら、「来世でまた会えたらいいね」とでも言ってみようか。会えなくったって、誰も悪くないんだから。




あるSNSで、少し前の私と同じような出来事があった人の記事を見て、いろいろと思いを巡らせたので、忘れないようにnoteを書いてみました。





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