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「ともに現実に塗れて戦うのだ」と決めた日

少し距離のある関係の方が“comfortable”で素敵だ、というふうにしか考えられなかったのに、いいえ結婚をするのだ、わずらわしいことをひきうけるのだ、ともに現実に塗れて戦うのだ、と無謀にも思えてしまったあの不思議な歪を、私はいまでも美しいものだったと思っている。美しくてばかげていて幸福ななにかだった、と。

江國香織『いくつもの週末』集英社文庫

もともと江國香織(愛をこめて敬称略)が大好きだけれど、その中でも好きな作品の、好きな一節。自身の結婚生活を書いたエッセイ集。パートナー間で「少し距離のある関係の方が“comfortable”で素敵だ」というのは本当にその通りだと思う。

近くにいたいと願うのだけれど、近づけば近づくだけ、相手の過去も環境も、今まで触れてこなかった考えも、いろんなことがあらわになる。なにか一つでも欠けていたら、今はないのだから、一部を否定することはできない。それは逆も然りだ。だからどうしたって、どんな相手だって、少し距離のある関係の方が“comfortable”なのだと思う。

よそ行きの顔をしていた方が甘やかに過ごせるかもしれないし、お行儀よく振舞った方が穏やかな時間が流れるかもしれない。近づけば、取り繕えない部分は間違いなくある、と思う。

人生における選択をしたとき、いつもいつもその結果は残るけれど、選択をしたその瞬間の感情はすっかり忘れてしまう。人に選択の理由を聞かれるたびに、よそ行きの答えをいくつも用意して、それらが本当に事実だったかよく分からなくなってしまう。よそ行きの答えだって嘘ではないけれど、本当に心からそう思っていただろうか。なにを迷って、なにを不安に思いながら、この選択をしたのだっけ、と。

結婚は目的ではなくて、手段であるから、ふたりで生きていくための手段に過ぎないのだけれど、ふたりで生きていくためには結婚しか手段がなかったかといえば、そうでもない。強いて言えば、結婚が最善のように見えた、というのが近いかもしれない。かと言って、前向きでなかったことは決してなくて、決まったときはきちんと嬉しかった。

婚姻届けに2回サインをして(私が書き間違えた)、役所で受理され結婚した。

苗字は私のを変更した。アンバランスなしきたりに抵抗することも、生きていくための力だけれど、いろんなしきたりの中でもしなやかに対応していくことも、同じくらい大切な生きていくための力だと信じている。

まだ、自分の幸せを言語化できない私は、相手の幸せを背負うことはできないし、自分の幸せを預けることもしないけれど、ふたりで探っていくことができれば、それは幸せだと思う。

相手のすべてを知ったような気になって、でも、ふとした瞬間に全く知らない一面に驚いて、まるで何も知らない他人だったような気がして、いつまでもそんな風であればいいと思う。

「ともに現実に塗れて戦うのだ」と決めた日の記録。

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