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短歌がよめないこと


自治体のサイトを見、検温するのが朝のルーティンになって2ヶ月。

第一線で働いている人、インフラや物流に携わる人、そのひとたちを支える製造業、働く人たちの家族。我慢や不安に苛まれながら、みんながみんな、それぞれの現場で踏ん張っている。

わたしはわたしで自分のフィールドを守りながら日々暮らしているわけだが、この2ヶ月で短歌がよめなくなった。自分で詠むことも、他の人の短歌をよむこともできなくなった。

この日々のことを歌にしたくない。わたしが感じる不安や失望や、そんなものは他の人たちに比べてどれほどに小さいことかと思うからだ。

ありがたいことに仕事があり、勤務形態も大きく変更にならず、住んでいる市内からは10日間新規患者が出ていない。大好きな人たちがいて、家族がいて、連絡を取り合うことができる。食料品の買い出しに行くことができ、通販で日用品を取り寄せることができ、一体わたしのなにが不安だというのか、とわたしのなかの誰かが笑う。でも、よめない。

心の活力不足、というのが近いかもしれない。

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「この日々をよまないのも嘘だ」とわたしのなかの誰かが言う。青い空を眺めるばかりで、外に出られないわたしがいる。できるかぎり家にいたいのに、職場に向かう人々もいる。自分自身しかいない部屋の中で、今この世界を見ないふりをして虚構の世界を詠むことも、どうにもできそうな気がしない。

誰かの叫びや苦しみを見るたびに、不定形な「自分のいる側」のぬるさを思い知る。それがいつひっくり返ってもおかしくないのに、わたしは甘いものを食べていたりゲームに夢中になったりしている。

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自分との折り合いがついたら、ふわっと短歌を詠むのかもしれない。

長い休みの間は、自分を諦めず、小さく絵や文をかこうとおもう。

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(今日はちょびっと後ろ向きな日でした)

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