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「大いなるもの」 わたしとダイビング


なんせ毎日海が恋しい。
初めてダイビングを経験してから5年経つが、こんなに海水に浸からなかったのは初めてである。
乾燥わかめの気持ちがわかる。
わたしを海につけてほしい。

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毎日信じられないほど暑い。
なのに、海には行けない。

日に15分ほどしか外を歩かないのに、首元がくっきり焼けている。あまりの悲しみに日焼け止めを塗る気力が失せたせいだ。
淑女としてはあるまじき焼け方である。
しかし、海に行ったが故の日焼けではない。それが尚更わたしを切なくさせる。

元々趣味のなかったわたしにとって、5年前唐突に始めたダイビングはまさに「趣味」だった。
潜るというその目的のために、一人であちこち行き、知らない人とコミュニケーションをとり、非日常を享受する。
それまでの出不精を解消せんばかりに飛び回る姿を見て、身内は本当に不思議がっていた。

風呂か?という南国の海も、歯の根が合わないほどの冬の伊豆海も、恋しくてたまらない。

「ダイビングのなにがそんなに楽しいの」と聞かれて、いつもことばに困る。

海が綺麗だから。
魚が好きだから。

それだけではないのだけれど、うまくことばに出来ず、魚の面白い生態などをペラペラ話してその場を濁していた。
ちなみに、今のところウケがいいのは「クマノミに手の甲を噛まれたことがあるが、そのときのガイドさんに『あ、あやさん手がお麩に似てるもんね』と言われた」というエピソードである。

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つい先だって、昔の「100分で名著ノート」を読み返していてふと気になるフレーズがあった。
(100分で名著は素晴らしい番組である。わたしは番組を見ては学び、ノートにまとめ、納得し、都度忘れる。リスか。)
西田幾多郎の「善の研究」の回である。

「宗教=大いなるものの前で自分の小ささを実感し、自分を問い直すこと」
 
なるほど、と、思った。
及ばなさを知り、畏怖を抱き、同時に自分を再認識すること。
まさにわたしにとってのダイビングではないか!

器材が外れたら溺れてしまう海の中で命の営みを見ることは、わたしにとって「大いなるもの」の体験に他ならない。
極小サイズのウミウシも、畳のようなマンタも、わたしにとっては「大いなるもの」だ。そしてそれを抱く青い青い海も。(ときどき緑だったり茶色だったりする海も。)

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宗教を断たれたとき、ひとはアイデンティティの揺らぎを感じ、精神的なダメージを受ける。
誰にとっても「大いなるもの」はあり、それを体感する場は様々あるだろう。
不自由ばかりが目立つ最近、それぞれの「大いなるもの」との触れ合いが、少しでも多かれと願ってやまない。

そう。そうなのだ。これはアイデンティティの危機なのだ。わたしを潜らせてください。


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