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書くことのハードルを下げてくれたのは、「書く」ことだった

小さい頃から、何かを「かく」ことが好きだった。
それは、「書く」であり、「描く」でもあり。

読書が好きで、従兄や親戚のお兄さんたちから譲り受けた「ちょっとおにいさん、おねえさん向け」の本を読むことに、秘かな自尊心を満たしていた。

幼稚園の頃、祖母が「なかよし」を買ってきてくれた。
言わずと知れた、少女向けマンガ雑誌だ。毎月は読んでなかったと思うが、遊びに来てくれるときに買ってきてくれて、時々読んでいた。
お目目キラキラの少女マンガの世界に初めて触れて、私も真似をしてお姫様や女の子のイラストを描きだした。しかも、時にはストーリー仕立てで。
今まで読むだけだった童話やお話、マンガから、自分が「かく」という行動に変わったのは、このときからかもしれない。

ぬりえよりも好きだったのは、着せ替えごっこやお人形遊びだった。それでやっていたことが即興劇のようなものだとしたら、創作という点では「かく」ということもある種、似たようなものだ。

その次に、小学校二年生の頃、詩を書くことを学校で学び、暫くの間、詩ばっかり書いていたのだが、あるとき、「白い本」という装丁の美しい無地の本をもらい、童話を書き始めた。

とはいえ、実際に書き始めるまで、暫くは大事にとっておいたと思う。その本は、中のページも色が付いていて、うっすらと背景にイラストが透けているという子供心にも想像力が膨らみそうな、お話を書くのにぴったりな本だった。
同時に、その綺麗なページの上に私が文字を書き込んでしまうことによって、美しいページが壊れてしまうのが勿体ないような気もしていた。

いつ、それに書いてしまおう!と思ったのかは覚えていないけれど、そのピンクの本を一冊書き上げ、二冊目のブルーの本を買ってもらい、それも書き上げた。童話や詩、イラストを書いていたと思う。どんな話だったかはさっぱり覚えていないけれど。

学校の新聞係とか新聞委員で自分が手書きしたものが配られる喜びを知ったのは、その後だ。
自分の書いた文章というだけでなく、多分イラストとかも描いていたと思うが、全体の配置とか見出し、バランスなどのようなものも含めて、自分がアイディアを出した!書いた!という達成感と、それを人に見てもらうということを知った。

もう少し大きくなってメールを使うようになってくると、舞台を見に行った感想や、旅行記のようなものを、友人たちに一方的に送り付けていた。
面白い、とかまた読みたい、という楽しんでくれる反応を良いことに、調子に乗って、更に一方的に送り付けていた。実は傍迷惑だったのなら、当時の友人たち、ごめん。

その内、趣味が高じて、ホームページを作ることになった。そこでは、私の余りある愛をぶつけて、ブログにもいろいろと感想や日記のようなものを書き殴っているうちに、いつの間にか常連さんのようなものが出来始めた。

そうやってやりとりしている人たちが増えてきて、実際に閲覧者の人数のゼロがどんどん増えていくと、「楽しんでもらえるものを書かなくては」「きちんとしたものを書かなくては」という思いが強くなってきてしまい、いつの間にかそれが「きちんとしたものが書けないから、書けない」にすり替わってしまっていた。

書くことが好きだった筈なのに、書けなくなってしまった。

その状態が、凄く、辛かった。

書きたいという気持ちはあるけれど、書けない。何を書いていいのかわからない。
そんな状態がかなり長い間続いていた。
その間も、Twitterで短い文章なら書ける、とか、衝動のままにブログを書いてみたりなどはしていたが、まだ苦手意識のようなものと、またすらすら書けるようになりたいという切望のような、書くことへの高いハードルが残っていた。

そんな中、たまたま自分では買わないようなWaldmannの万年筆をいただいた。しかも、名前の刻印入り。
世界に一つだけの、私だけの万年筆だ。
折角なので、この万年筆を私が「書く」ことのシンボルにしようと思った。
ただ、殆どの用事をPCやスマホですませていると、せいぜいお誕生日カードを書くときなどしか、文字を書く機会がない。

あるとき、電話中にメモを取るのを、PC上でメモするのではなく、万年筆を使って手書きしてみた。
すると、聞いたことを頭で考えながら文字に落とすのは同じ作業なのに、何故か手書きのほうがスムーズだった。
文字をタイピングする速さなら、間違いなくPCのほうが速い。
それなのに、何故か手で書くということによって、私の「書く」感覚が呼び起こされたような気持ちになった。

暫くしてから、たまたまLeuchtturm1917(ロイヒトトゥルム1917)のノートがセールになっていたのが目に留まり、買ってみた。
今まで全く目に入っていなかったこのブランド、家に帰ってから調べてみると、日本でも人気なうえ、万年筆で書いても裏写りしない、と。
万年筆を活用したい私にぴったりじゃないか!

開封してみると、帯の裏にこんなことが書いてあった。

Denken mit der Hand

Schreiben mit der Hand ist Denken auf Papier. Aus Gedanken werden Worte, Sätze, Bilder.
Erinnerungen werden zu Geschichten. Ideen verwandeln sich in Projekte. Aus Notizen entsteht Durchblick.

Wir schreiben und verstehen, vertiefen, sehen, denken – mit der Hand.
手で考える

手で書くことは、紙の上で考えること。考えることが言葉になり、文章になり、絵になる。
記憶は物語になり、アイデアはプロジェクトに変換され、メモは洞察を促す。

私達は手で書き、理解して、学び、見て、考えるのだ。

正にそのとおりだった。

高級紙に、お気に入りの万年筆で文字を書いていると、それだけで満足感が生まれてくる。
書き心地が良いこと。
手触りが良いこと。
その上に綴られる青いインクの色が好きなこと。

そうか。私は、タイピングすることではなくて、手で「書く」ことが好きだったのか。
それが、私が好きな「かく」ことの本質だったのだ。

それがわかったら、ちょっと気が楽になった。
そして、手書きの機会を意図的に増やすようにしていった。

すると、書くことへのハードルがいつの間にか下がっていた。
例えば時間がなくてなかなか集中して書けない、というようなことはあるものの、書こうとすると、うっと詰まってしまうような、あの感覚が消えていた。

思い起こせば子供の時からずっと、形を変えて、いろいろと書いて、綴ってきた。
手紙を書くのも好きだったし、交換日記のようなものも、大人になってからもやったりしていた。
私の「好き」を、好きだという感覚を、また思い出せて良かった。

つい、便利なものに走りがちな世の中ではあるけれど、こうやって時には立ち止まって、アナログに戻ってみるのも良いかもしれない。書くこと以外でも。

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