ジャック・アラン・ミレール(Jacques-Alain Miller)『縫合―シニフィアンの論理の諸構成要素―(La Suture―Éléments de la logique du signifiant―)』私訳

はじめに

以下はJacques-Alain Millerによる論文『縫合(Sture)』の私訳です。なんかラカン派においては大変重要な論文らしいです。加えて、『差異と反復』でも参照されているようです。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter上で指摘・修正していただければありがたいです。
出典
仏語版、オリジナル
Jacques-Alain Miller: La Suture. Éléments de la logique du signifiant - Cahiers pour l’Analyse (An electronic edition) (kingston.ac.uk)
英訳
Microsoft Word - CpA1.3trans.Miller.Suture.doc (kingston.ac.uk)

・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・本文中の強調(下線)は太字で表しています。。
・訳者が勝手に補った箇所は[]をつけていますが、関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ミレール本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・元の文章ではページごとに注の番号がついていましたが、ここでは番号を振りなおしています
・訳出するに際しては上記の英訳を適宜参照しましたが、『Concept and form vol:1』に収録されている最新の英訳は訳出しているときに存在を知らなかったので参照していません。(もしかすると最新の英訳を参照して改稿するかもしれません。)
・「」は訳者が勝手に付け足したものです。””は元の文章にも付されていたものです。

また、一部の訳語の表記にずれがあったり、一般的な訳語とは異なる部分があるかもしれないですが、コメントやTwitterで指摘していただければ幸いです。
また、分析手帖に関しては重要論文の英訳は『Concept and form vol:1』に収録されているかと思いますので、興味のある方は以下のリンクから購入できます。(私が調べた限り弊学の図書館にはありませんでした。)
Concept and Form, Volume 1 – Verso (versobooks.com)
vol:2はvol:1に収録された論文の解説集です。
Concept and Form, Volume 2 – Verso (versobooks.com)



以下、和訳


 個人的な分析のみが与えることができる明確な[精神分析についての]諸概念を獲得されていない者は、精神分析に介入する権利がない。この禁止の厳格さは、フロイトの続・精神分析入門講義(?)において表明された。フロイトのこの講義を[疑似的に受けている]あなた、紳士と淑女たちは疑いもなく尊重している。
 こうして、ジレンマへと分節化されることで、あなたの意図についてのある問いが自発的に私へと投げかけられる。
 もし、禁止に違反して、私が話そうとしている精神分析であるなら―あなたが、あなたの信任を可能にするような資格を生産することができないと、あなたが知っているひとから聞いて、あなたはここで何をしているのか?
 
あるいは、もし私の話題が精神分析でないとして、―あなたは以下のことについて話されている[=以下のことについての話を聞く]こと望むためのこの領域へと、あなたはとても忠実にその歩みを進めている。それはフロイトの領野に関係する諸問題である。ここにおいてあなたは何をしているのか?
 
この場であなたは何をしているのか?とりわけ”分析家”である紳士・淑女の皆さんは。あなたはこの警告を聞いた。それはとりわけフロイトによって差し向けられたものである。この警告はあなたの知識の直接の実践者ではないもの、フロイトが述べていたような学者を自称するもの、あなたのホスピタリティへの感謝を示すこともなしにあなたの火の上で自身のスープを温めるような物書きに身をゆだねてはいけないというものである。それは、もしあなたのキッチンでコック長の役目を果たす人が喜んで皿洗いに鍋をつかませたとしよう。あなたの心に鍋が気にかかることは当然である。というのもあなたは鍋によって生計を立てるからだ。以下のことは定かではない、また白状すると、そのことを疑っていた。それはちょっとしたスープがこのようなやり方で煮られ、あなたがそれを飲む気であろうということだ。それでもあなたはそこにいる....一瞬、私があなたがまだいることに驚くのを許してほしい。そして、時間をかけてこのあなたの使用権がある全ての器官の中で最も大切な器官、つまりあなたの耳をしばらくの間操作する特権を許してほしい。[ここは続・精神分析入門講義全集21,p.7の記述を参照のこと] 
 ここで現前し続けているもの、それは私が以上のことを正当化することに専念する必要があるということだ。それは少なくとも公言することができる理由によって、である。
 私はそのこと[=理由を述べること?]に時間をかける必用はない。この正当化は以下のものに収まっている。つまり、発展の後にはあなたの耳を驚かせることができないものである。この学期の初めから、フロイト理論の領野は閉じた表面によって表すことができないというこのセミネールにおいて、あなたの耳はこの発展に魅了されてきた。精神分析を開くことはリベラリズム、空想の効果ではないし、さらにその守護神の役割を買って出るような人間の盲目の効果でもない。もし、精神分析の内側に位置していないようなひとが、そうであるからといって精神分析の外側へと投げ返されないのであれば、二次元に制限されたトポロジーから排除されたある特定の点において、外側と内側は再び一つになり、周縁は区域を横断する。

シニフィアンの論理のコンセプト

 私が位置づけ直すことを狙うものはジャックラカンの仕事のうちに散らばっている教育に集中しており、それはシニフィアンの論理の名によって指し示されねばならない。―[シニフィアンの論理、]それは一般的な論理であり、その機能の仕方は知の全領域との関係において形式的・明確(formel)である。この知には精神分析のそれも含まれる。この知を明示することによって精神分析はこれを統治する。―最小限の論理は、欠くことのできない唯一の諸部分がそれ[=最小限の論理]に与えられている限りにおいて、それ[=最小限の論理]に、線形な運動へと縮減された展開を保証する。それに[=この展開に?]必要な道程それぞれの点において一様に[この最小限の論理が]生じる。”シニフィアンの”と呼ばれるこの論理が修正するものは、最初にカテゴリーとして生じる領野の有効性を制限するものの偏った状態である。この論理は言語的曲用を修正する。この言語的曲用は伝播に固有のものである。ひとたびその本質を取り戻すと、我々は必ず伝播を新しいディスクールにする。
 この過程の主要な利益は概念的支出のうちで最も大きな節約( l'économie )でなければならない。この過程は少なくともそれへと差し向けられている。この支出において、利益はその後節約があなたからまさに、以下のことを隠すのではないかと恐れることになる。つまり、いくつかの諸機能の間で実現する諸結合がとても本質的であるので、そのため本来の分析的推論に道を誤らせることなしには無視されえないのである。(?)
 この論理と我々が論理学者と呼ぶものの関係を考える。ひとはこの関係が前者が後者の出現について扱うという点で奇妙なものであることを理解する。またひとはこの論理が、論理の起源の論理として名乗らねばならないことを理解する。―言い換えれば、論理は法の後についてくるわけではない。そして、論理の裁判権を規定することで、この論理は論理の裁判権の外へと落ちてゆく。
 この考古学的(archéologique )な次元は、厳密に論理の領野から出発する遡及的な運動によって、論理の再認に最も肉薄するため、最短で論理の誤認[=見落とし](méconnaissance)が最も根源的に実現される地点へと至る。
 このアプローチは、ジャック・デリダが我々に現象学の模範的存在(原注1)はまさにせっかちな人々から、この決定的差異を覆い隠すであろうということを示したアプローチを繰り返す。誤認[=見落とし]はここで決定的差異において意味の生産の出発点を捉えるのである。それ[=論理の誤認?]は忘却として構成されるのではなく、むしろ抑圧( refoulement)として構成されると言える。
 我々はそれ[=論理の誤認?]を意味するために縫合(suture)という名前を選ぶ。縫合は主体と主体のディスクールの鎖の関係を名づける。ひとはこの関係が欠如した要素として、つなぎ留められた-場所(tenant-lieu)という形態を表現していることを知るだろう。というのも、そこで欠如することによって、この関係は単純な全き不在(absent)ではないのである。縫合はその外縁(extension)によって、一般に欠如である。この欠如は、その欠如を要素として持つような構造の欠如である。これは欠如がつなぎ留められた-場所の位置を前提とする限りにおいて、である。
 この解説は縫合の概念を分節化するためのものである。この説明はジャック・ラカンによって為されたようなものではない。しかしラカンのシステムにおいて絶えず現前しているものである。
 あなたにとって以下のことを明確にしておく。つまり、私はこの場において、哲学者として喋っているわけでもなければ、哲学者の見習いとして喋っているわけでもないということだ。―もし哲学が、フロイトによってなされた”彼の寝酒と寝室の彼のガウンのぼろ切れによって、彼は普遍的構築物の穴をふさぐ”という引用においてヘンリ・ハイネが語っているようなものではなければの話だが。しかしあなたは縫合術の機能が哲学者に特有であると考えてはいけない。:哲学に固有なものは”普遍的構築物”としての哲学者の実践の領野を決定することである。あなたが論理学者は言語学者のように彼らの水準で縫合しているのだと納得することは重要である。
 縫合を理解するために、ひとがディスクールがディスクールそれ自体について明示的に述べるものを横断すること要求する。―ひとはディスクールの意味をディスクールの字面(lettre)から区別する。この解説は字面に関わっている。―この字面は死んだ字面である。言説は字面を存続させる。意味が死ぬということは驚くべきことではない。
 分析家の導きの糸はゴットロープ・フレーゲが、彼の著書『算術の基礎』(原注2)の中で述べたディスクールである。[このディスクールが]我々にとって特権的であるのは以下の理由による。つまり、このディスクールが自然数の理論を十分に構築したペアノの理論において根本的なものとして受け入れている諸観点を問いに付したからだ。―これらの諸用語はつまり、ゼロという用語、数という用語、後継者(successeur)(原注3)(訳注1)という用語である。この理論で問題となっていることは、公理系を脱臼させることである。この公理系において、理論はその縫合、書物を自ら強化するのである。(?)

ゼロと一

フレーゲの最も一般的な形式において、問いは以下のように表現される

自然数全体の数列において、機能しているものは何だろうか?自然数の数列は付け加え(rapporter)(訳注2)ねばならない。

答えは、私が前もってそれについて話すと、以下のようになる。

数列を構成するプロセスにおいて、数列の生成において、主体の機能は見落とされながら[=誤認されながら]作用する。(?)

 確実にこの主張はパラドックスの描像を捉えている。そのパラドックスとは、フレーゲの論理的ディスクールが、経験論的理論において物事を統一性(unité)、統一性のコレクション(collection des unités)(訳注3)へと引き渡し、また数の統一性へと引き渡すために本質的であることが明らかにされること、を排除することで扱っている事柄について知っている人々にとってのパラドックスである。つまり[フレーゲが排除したものとは]抽象化と統一化の作業を支える限りのものとしての主体の機能である。
 こうして個別性として、あるいはコレクションにおいて保証された統一性にとって、数がその統一性のとして機能する限り、統一性は永続する。ここでイデオロギーは生起するのである。このイデオロギーは主体のイデオロギーであり、主体をフィクションの生産者とするものである。ただし主体をイデオロギーの生産物の生産物として再認するかもしれないが。イデオロギーにおいて、論理的ディスクールは心理的なディスクールと結合する。政治はその出会いのうちに、主人の位置を占めている。この主人の位置はオッカムによって認められ、ロックによって隠され、その後継者たちによって見落とされた[=誤認された]ように思われる。
 主体はそれゆえ、その裏面が政治的であるような賓辞(attributs)によって、配置すること(disposant)を諸力(pouvoirs)として定義される。この諸力は、互換性のある[コレクションの]諸要素が失われることなしにコレクションを閉じるのに不可欠な記憶能力という力であり、帰納的に作用する反復という力である。疑いもなく、フレーゲがすぐに算術の経験的基礎に対立することで、数の概念が現れねばならない領野から排除したものはこの主体である。
 しかしひとが主体は自ら縮減されることはないと断言すると、主体の心理学にとって最も本質的な機能において、数字の領野の外への主体の排除反復と一体化する。問題となっているのはこれを示すことである。
 あなたはフレーゲのディスクールは概念についての三つのコンセプトによって構成される基本的なシステムから出発し、発展しているということを知っている。この概念についての三つのコンセプトとは対象の概念と数の概念、そして二つの関係の概念である。:最初のコンセプト、つまり対象の概念は包含(subsomption)である。二つ目のコンセプト、つまり数の概念は我々にとっては、割り当て(assignation)であろう。数は対象を包含する概念に対して割り当てられる。
 特有の論理は以下のことに起因する。それは各々の概念はまさに、以下の関係によってのみ定義され、また存在することである。この関係はその概念が包含性(subsumant)として、包含されているものに対して維持している唯一の関係である。同様に或る対象の存在は概念の下へと落ち込むことによってのみ、この対象にもたらされる。他のいかなる限定(détermination)も、対象の論理的存在について理解できない。したがって、対象の時空的な局在化によって現実へ組み込まれた事物(chose)に対する対象の差異から、対象は自身の意味を獲得する。
 これによって、あなたは消失を、事物が対象として現れるために、事物に対して行わねばならないことだと理解する。―対象が一である限りにおいて、対象は事物である。
 
あなたにとって以下のように思われる。つまり、システムのうちにおいて作用し、包含の唯一の限定から形成された概念は二重の概念である。概念における同一性の概念である。
 
同一性によって概念の内へと導入されるこの二重化は論理的次元の起源を与える。というのも、事物の消失を実行することによって、二重化は可算性の出現を引き起こすからだ。
 例えば、ここで私が概念の下へ落ちたものを集めたとしよう。”アガメムノンとカサンドラの息子”(訳注4)、私はそれら[アガムメノンとカサンドラの息子]を包含するためにぺロプスとテレダモスを呼び寄せる。まさに”概念の同一性:アガムメノンとカサンドラの息子”という概念を作動させることによって、このコレクションに対して私は数を割り当てる。概念のフィクションの効果によって、今や各々が謂わば自分自身にあてはめられる限りで息子たちは介在している。この自分自身が、それ[アガムメノンとカサンドラの息子]を統一へと変えるもの、可算なものとしての対象のステータスへと引き渡す。単数的な統一の一性(un)、これが包含されたものの同一性である。この一性がここで全ての数に共通するものである。ここでこの数はすべて、何よりもまず、統一として構成されたものである。
 あなたはこの点から数の割り当てについての定義を推論する。”概念Fに割り当てられた数は「”Fという概念についての同一性”」という概念の外縁である”というフレーゲの公式にしたがって、である 。
 フレーゲの三位一体のシステムは事物をその同一性の支持体(support)へとゆだねるという効果を持つ。この支持体のうちで、事物は作用している概念の対象であり、可算的である。
 私がたった今たどったプロセスにおいて、私は自分がこの主張を引き出すことを許可する。その主張の発生をのちに我々は見る。その主張とは、ひとが概念を統一すること(unifante、英訳unifying)と呼ぶであろうものは、それは数の割り当てが弁別的なものとしての統一に従う限りにおいてのものであり、それはこの統一が数を支える限りにおいてのものであるという主張である。
 弁別的統一の位置に関して言えば、弁別的統一の基礎は同一性の機能において位置づけられるべきである。世界の全てのものに一つの存在という属性を付与することによって、この同一性は世界の全てのものを概念的(論理的)対象へ変貌させるのである。
 この構築の地点において、あなたは私がこれから提示する同一性の定義の重要性を感じる。
 この定義はその本当の意味を数の概念において与えるべきものである。この定義は何もそこから[=数の概念から]借りてきてはいない(原注4)。―この[定義の]目的は数え方(numération)を生成することであるからだ。
 この定義はそのシステムにおける中心軸なのであるが、フレーゲはこの定義をライプニッツに求めた。この定義は以下の言明(énoncé )につなぎ留められている。:オナジモノトハ、ヒトガソノシンリ(salva verite)ヲミダスコトナシニオキカエルコトガデキルモノデアル(eadem sunt quorum unum potest substitui alteri salva veritate)。(訳注5)同一なもの、それは一方が他方のsalva veriteへと、真理を損なうことなしに置き換えられるような諸事物である。
 疑いなくあなたは以下の言明のうちで実現することの重要性を評価する。その言明とは:真理の機能の出現である。しかし、確実であると思われるものは、表現されるものよりも重要である。(?)つまり、自身-との-同一性(identité-à-soi)である。ある事物がその事物自身と置き換えられることができないということ、そしてどこに真実があるだろうか?絶対的なのは事物自身の転覆である。
 もしひとがライプニッツの言明に従うならば、可能性における真理の故障(défaillance)はこの瞬間に開かれている。事物を別の事物に置き換える際の真理の損失は直ちに新しい関係における回復を伴うであろう。真理は以下に述べるものにおいて再び見つかるのである。それは、事物それ自身との同一性によって、置き換えられた事物が、判断の対象へと変えることができるものであり、そして、置き換えられた事物が言説の秩序へと入れることができるものである。自身-との-同一性、それは分節化可能なのである。
 しかしもし、ある事物が自身と同一ではないであろうということは、真理の領野を転覆させ、破産させ、撤廃する。
 あなたは真理のセーフガードが何がしかの程度でこの自身との同一性に関係していることを把握する。この同一性は事物から対象への移行を暗示する。真理が救われるべきであるのなら、自身-との-同一性は不可欠である。(?)
 真理とは、各々の事物がそれ自身と同一であるということである。
 
さて、フレーゲのシェーマを機能させよう。つまりフレーゲが我々に与えた三つの段階に区切られたこの過程をたどる。世界にある事物Xがあったとしよう。経験的なXについての概念があったとしよう。シェーマのうちに位置を占める概念はこの経験的な概念ではない。むしろそれは”Xの概念との同一性”という二重化された概念である。概念の下へと落ちてゆく対象は統一としてのXそれ自体である。その点において、数、そしてこれはこの過程における第三番目のものであるが、Xの概念に割り振られる数は1になるだろう。このことは、この1の機能は世界の全ての諸事物にとって反復的であるということを意味する。したがって、この1はまさに数をそのようなものとして構成する唯一の統一である。そして1は自身独自の数としての身分における1ではない。その身分とは数の列の中で、自身固有の場所を持ち、自身に特有の名前を持つような身分である。1の構築はそのうえ以下のことを要求する。それはそれ[1の身分?]を変えるためにひとが世界の事物を呼び出すということである。―このことはフレーゲによればありえない。:論理はそれ自身によってみずから支えているべきである。
 1は順序だった数列との同一性という1である。数がこの1の反復から変化し、そして論理的次元はその自動性をすっかり獲得するために、数は現実とのいかなる関係もなしに[に頼ることもなしに]ゼロを出現させる。
 このゼロの出現、ひとはこの出現を手に入れる。というのも、真理が存在するからだ。ゼロは”自身との非-同一性(non-identique à soi)”という概念に割り当てられた数である。実際には、[このゼロは]”自身との非同一性”という概念である。この概念は、概念であるがゆえに、ある外縁を有する。[この外縁は]対象を包含する。どれ[が対象なのか]?どれもそうではない。というのも真理が存在するので、どの対象もこの概念から包含される場所へと至らない。そして数はその外縁を規定するのだが、この数はゼロである。
 このゼロの生成において、私は明確に、この生成は真理が存在するというこの命題によって支えられていると主張する。もし、どの対象も自身-との-非-同一性(non-identité-à-soi)という概念の下へ落ち込まないとしたら、それは真理が救われるべきであるからである。もし、自己自身と等しくないような事物が存在しないとしたら、自身との非-同一性は真理の次元それ自体と矛盾する。この概念に対して、ひとはゼロを割り当てる。
 決定的な言明は自身-との-非-同一性という概念はゼロによって配分されるということである。このゼロが論理的ディスクールを縫合する。
 というのも、私はそれ自身による論理の自動的構築ついてのフレーゲのテキストを横断する。このことは必然的であった。現実についての全ての言及を排除し、それ自身とは等しくない対象に関する概念を想起するために、つづいて[それ自身とは等しくない対象は]真理の次元から拒絶される。
 数という場に自らを書き込む0はこの対象の排除を成し遂げる。包摂によって描かれたこの場所は、対象が欠如している場所である。一切がそこに書き込まれることはできない。そして、そこで〇と書かねばならないとすると、0と書くということは、その場所が空白(blanc)であるということを示すために、欠如を可視化するということに他ならない。
 ゼロはゼロという数に欠けている。ゼロは概念化不可能性を自ら概念化するのである。
 今後、私が解き明かしたゼロという欠如を放っておこう。それはゼロの想起とゼロの取り消しの変質、つまりゼロという数を生産したものについてだけ考えるためである。
 ゼロは概念に割り当てられた数として理解される。このゼロは対象の欠如を包含している。このゼロはある事物として存在する。―[この事物は]思考における基本的な非-現実的実物である。
 
もし数ゼロについて、ひとが概念を構築するなら、この概念はその唯一の対象として数ゼロを包含する。ゼロに割り当てられた数はそれゆえ1である。(訳注6)
 フレーゲのシステムは循環によって機能する。この循環はフレーゲのシステムが固定する各々の場における循環であり、ある要素の循環である。この循環は数ゼロからその概念への循環であり、その対象からその数への循環である。この循環は1を生み出す循環である(原注5)。
 このシステムはそれゆえこうして0は1と看做されるということによって構成される。0を1と看做すこと(ゼロの概念は現実のものを包含せず、空白のみを包含するのだが)は数の列の一般的な支えである。
 これはつまりフレーゲの後継者の操作についての分析で示されたことである。この分析の本質はnに続く数を得るために、nに統一性を付与するというものである。nの後継者であるところのn´はn+1と同等(égal)である。つまり、... n ..... (n + 1) = n' ... [である。]フレーゲは n+1に細工をする。それはnからnの後継者への移行に関わっているものを発見するためである。
 私がフレーゲが到達した最も一般的な後継者についての公式を提示すると直ちに、あなたが把握するであろうこの生成におけるパラドックスは[以下のものである。]”概念に割り当てられた数:自然数の数列において「nによって終わる自然数の数列の構成要素」が直ちにnの後に続く。”
 数を手にとろう。ここに三がある。それは我々が以下の概念を構成するのに役立つ。その概念とは”三によって終わる自然数の数列の構成要素”である。この概念に割り当てられた数は4であるということが明らかになる。そこにn+1の1が来るのである。この1はどこから来たのだろうか?
 三の二重化された概念に割り当てられることによって、数3はあるコレクションを統一する名として、留保(réserve)として機能する。”3によって終わる自然数の数列の構成要素”という概念において、数3は項=名辞である。(これは構成要素、そして最後の構成要素という意味での項=名辞である。)
 現実の秩序において、3は3つの対象を包含する。数の秩序において、この秩序は真理によって拘束されている秩序であるのだが、3つの対象とはひとが数え上げる数である。3の前には3つの数があるのである。―それゆえ、この3は4つ目の数である。
 数の秩序において、そのうえ0が存在する。そして0は1と看做される[or数えられる]。数の移動、項=名辞の真理を用意する機能によって、この移動は0の総和を前提とする。そこから後継者[が生じる(?)]。現実において純粋にそして単純に欠けているものは、数の真理によって(真理の審級によって)0と記され、1と看做される[or数えられる]。
 これこそが、我々が自身と非-同一的な対象を、真理によって引き起こされ-拒絶され、ディスクール(真理としての包摂)によって制定され、破棄され、要するに縫合されたものだと述べる理由である。
 0としての欠如の生成、そして1としての0の生成は後継者の出現を決定する。nがあるとしよう。欠如は自らを0として固定する。この0は自らを1として固定する。n + 1はn´を与えるために自ら加えるものである。―[このn´は]1を吸収するものである。
 確かに、もしn+1の1がまさに1を0から数えるものだとすれば、加法の記号「+」の機能は余計なものとなるだろう。1はその垂直性の生成の水平的表現において位置づけ直されねばならない。:1は真理の領野における欠如の生成のシンボルとして捉えられるべきである。そして記号「+」は交差(franchissement)であり、侵犯(transgression)である。この侵犯によって0という欠如は1によって代理表象されるのである。そしてnとn´のこの差異によって、[0という欠如は]数の名前を生み出す。この差異はあなたが意味の効果として認めたものである。
 論理的な代理表象は三つの水準の段階付けを上書きして消す。私が行った操作がこの段階付けを繰り広げる。もしあなたがこれらの2つの軸の反対を考えるのなら、あなたは論理的縫合のうちにあるものを理解するだろうし、また私が提示した論理と論理学者の論理の間の違いについても理解するだろう。
 ゼロは数である。これは論理の次元においてその次元が閉じることを保証する主張である。
 我々のために、我々は0という数において欠如を縫合するようなつなぎ留められた-場所( tenant-lieu)を認めていたのである。
 ひとはここで躊躇を覚える。この躊躇はバートランド・ラッセルにおいてその局在化に関して維持された。(内部?数列の外部?)
 数列を生成する反復は0という欠如が受け渡すものによって維持される。まず垂直な軸にしたがって、[この反復は]斜線を超える。この斜線は真理の領野を制限する。これはこの領野において[この反復が?]一として表示されるためであり、そして[この反復は?]諸々の数の各々の名における意味として崩れ去る。この諸々の数は継起的に拡大する換喩の鎖のうちに囚われている。
 同様に、あなたは矛盾した対象欠如としての0と数列におけるこの不在を縫合する0を区別するよう気をつけねばならない。あなたは1、つまり数に固有の名、とそれ自身-との-同一性によって、縫合されたそれ自身との非-同一性の0を線(trait)に固定するような1を区別せねばならない。このそれ自身-との-同一性は、真理の領野におけるディスクールの法である。
 あなたが理解せねばならない中心的なパラドックス(つまりそれはあなたが即座に理解するように、ラカン的な意味でのシニフィアンについてのパラドックスである。)は、同一性の線が非同一性を代理表象するということだ。このことから、その[=同一性の]二重化(原注6)の不可能性が推論され、これにより反復の構造の不可能性が差異化の過程として導かれる。(コメント1)
 ところが、もし数列が、0の換喩が、その隠喩によって始まっているとしたら、もし数として列の0という要素がまさにつなぎ留められた-場所であり、このつなぎ留められた-場所は(0という絶対の)不在を縫合し、ある代理表象とある排除の代替の運動にしたがって、この欠如は鎖の下へ運ばれとしよう。数列との0の関係と分節化の再認に対する障害を作るものは何だろうか?この分節化は、シニフィアンの鎖によって主体を維持する関係の最も基本的な分節化である。
 不可能な対象、それは論理のディスクールが自身との非-同一性として呼び出し、そして純粋な否定性として拒絶するものである。論理のディスクールが不可能な対象を呼び出し、拒絶するのは、自身を論理のディスクールとして構成するためである。(?)論理のディスクールが不可能な対象を呼び出し、拒絶するのは不可能な対象について何も知りたくないからである。我々は不可能な対象を主体と名づける。それは不可能な対象が数列における効果的過剰として機能する限りのことである。
 不可能な対象のディスクールの外への排除は縫合である。[このディスク0ルの]内側では不可能な対象はこのディスクールをほのめかすのだが。(?)
 もし我々が今やこの線をシニフィアンとして確定したのだが、もし我々がシニフィエの位置を数に固定したら、欠如と線の関係がシニフィアンの論理として考えられねばならない。

主体とシニフィアンの関係

 実際、ラカンの代数において、(真理の場所としての)大他者の領野における主体について述べている関係は、それによって0が真理の支えとしての特異性(l’unique)としての同一性を維持するような関係と自身を同一視する。この関係、マトリックス(matriciel)である限りの関係は、客観的な一つの定義へと統合され得ない。-これこそが、医師ラカンのドクトリンである。0の生成、それはこの自身との非-同一性から出発するのだが、をあなたに描写しよう。この非-同一性は世界の全てのものが落ち込まないような非-同一性[同一性かも]の影響下にある。
 この関係を鎖のマトリックスとして構成するものは、この論理的帰結において孤立しているべきである。その論理的帰結は大他者の領野の外への主体の排除を決定する。この領野において、特異性の唯一性、弁別的統一性という形態の下でのこの論理的帰結の表現はラカンによって”unaire”(単項?)と名づけられた。ラカンの代数において、この排除は斜線によって記される。この主体はSをA[大他者]の面前にいる主体によって深く悲しませる(affliger)だろう。そして、A上の主体の同一性はこの斜線を移動させる。この移動はシニフィアンの論理の基本的交換にしたがってなされる。この移動の効果は主体に対して意味される意味作用の出現である。
 斜線の交換が手をつけていないものは大他者の下での主体の外在性であり続け、無意識を創設する。
 何故なら、以下の三分割
(1)主体-についての-シニフィエ(le signifié-au-sujet)
(2)意味している(signifiante)鎖。この鎖の主体に対する根本的他性が主体をその領野から削除する。そして最後に
(3)この拒絶の外在性の領野。
はシニフィエとシニフィアンの言語的二項対立に覆われることはあり得ないということが明らかであるとしよう。また主体の意識は意味作用のシニフィアンの反復によって規制された諸効果の水準に位置づけられるべきであるとしよう。それはひとがそれらの諸効果を諸効果の諸々の影であると言うことができるほどまでにであるが。もし反復それ自体が主体の消滅と主体が欠如としての移行によって生み出されるものだとするとしよう。その時、ただ無意識のみが思考の秩序のうちで鎖を構成する数列[or進展] できるだろう。
 この構成の水準において、主体の定義は主体をさらなるシニフィアンの可能性(la possibilité d'un signifiant de plus)にまで縮減する。
 結局、ひとは主題化の能力を過剰のこの機能に帰することはできないのであろうか?デデキントは集合論に、存在についての主体の定理を与えるためにこの主題化の能力を主体に割り当てた。可算無限の存在の可能性は以下のようにして説明される。”ある命題が真であるという時から出発して、私は常に次の命題を作ることができる。つまり、最初の命題が真であるということは、以下同様に無限へと続くのである。”(原注7)
 繰り返し(l'itération)の創設者としての主体に頼るということは心理学に頼るということではないので、主題化を主体の代理表象(それがシニフィアンである限りにおいてであるが、)に置き換えれば十分である。主体は意識を排除する。というのも、代理表象は誰かに対して行われるわけではなく、むしろ真理の領野の鎖において、それ[=代理表象?]に先行するシニフィアンに対して行われるからだ。
 ラカンが何かを誰かに対して代理表象するものとしての記号の定義を、主体を他のシニフィアンへと代理表象するものとしてのシニフィアンの定義と比較する時、彼はシニフィアンの鎖に関して、それはシニフィアンと記号の定義の諸影響の水準にあり、また意識が位置づけられるべき立場の否定の水準にあるということを主張する。[シニフィアンの]鎖における主体の挿入は代理表象である。それは消失(évanouissement)であるところの排除と必然的に相関的である。
 今、ひとが時間の内へシニフィアンの鎖を生成し支える関係を展開することを試したのだが、時間的な継起(succession)が鎖の線状性への依存性の下にあるということを斟酌せねばならない。
 生成の時間はまさに循環する時間でしかあり得ない。これこそがこの二つの命題が同時に真である理由である。この二つの命題はシニフィアンに対する主体の先行性とシニフィアンの主体に対する先行性を言明しているからだ。しかし生成の時間はまさにシニフィアンの導入から始まるものとして現れる。遡及、それは本質的には以下のことである:線状的時間の生起。諸定義の集合は保たれねばならない。この諸定義は主体からシニフィアンの効果を生み出し、そしてシニフィアンから主体の代理表象を作る。つまり循環的関係であり、しかしながらそれは相互的ではない。
 論理的ディスクールをこのディスクールの最も弱い抵抗の点、縫合の点において貫通することで、あなたは主体の構造が”蝕の隙間(battement en éclipses)”として分節化されたことを理解する。それは数に対して作用し、数を閉じるこの運動の様である。この運動は1の形態の下に欠如を引き渡す。それは欠如を後継者の内から撤廃するためである。
 「+」をあなたはシニフィアンの論理において作用される新奇な機能として理解していた。(記号、それは最早足し算ではなく、むしろ大他者の領野における主体のこの総和である。この総和は主体の消失を必要とする。)「+」は主体を脱臼させ続ける。それは生成の単項な(unaire)線と拒否の斜線を切り離すためである。ひとはこの主体の分裂を明示する。この分裂は主体の疎外に対する別の名前である。
 ひとはこのことからシニフィアンの鎖が構造の構造であるということを推論するだろう。
 もし構造的因果関係(主体がこの構造に巻き込まれている限りでの構造における因果関係)が無内容な言葉ではないとするなら、ここで発展したところの最小限の論理からこそ、論理は主体の身分規定を見出すのである。

主体の概念の構成は後に[扱う]。



原注

(原注1)cf. Husserl: "L'origine de la géométrie" - Traduction[翻訳)]et introduction[序文] de Jacques Derrida. PUF (1962).
(原注2)このテキストと英訳は”The foundationl of arithmetic”というタイトルで1953年に出版された。
(原注3)フレーゲによってその狙いのうちにもたらされた修正のうちどれもが我々の解釈に取り入れられることはないだろう。そして参照元における意味の違いを主題化する以前の段階に自ら留まり続けるだろう。―概念の定義がのちに賓述(prédication)の観点から、その非飽和(non-saturation)が自ら演繹する場所から導入されるであろうように、である。
(原注4)これが、同一性(identité)と言わねばならず、また同等性(égalité)と言ってはならない理由である。
(原注5)私は[算術の基礎の]76節について保留する。この節は隣接についての抽象的な定義を与えている。cf.フレーゲ著作集2、算術の基礎p.139
(原注6)そして、別の水準において、メタ言語は存在しない[が推論される]。(これはジャック・ラカンのこの号[=分析手帖創刊号]におけるテキストにおいて見られる)(訳注7)
(原注7)デデキントはカヴァイエスによって引用されている。("Philosophie mathématique". p. 124 - Hermann - 1962)

訳注

(訳注1)後継者(仏:successeur、英successor):後者関数のことだと思われる。nにn+1を割り当てる関数のこと。
(訳注2)rapporterには縫い付けるという意味もある
(訳注3)多分collectionという語は集合、class等々様々なものを指し、明確な定義がないふわっとした語である。わかりにくければ、基本的には集合だと思って読めば良いと思う。
(訳注4)カサンドラ

ギリシア神話で、トロイア王プリアモスとヘカベの娘。アポロン神から予言能力を授けられたが、その求愛を拒んだため、彼女の予言はけっして人から信用されないものとされた。そのためパリスがヘレネを連れ帰ったとき、またギリシアの勇士が隠れた木馬がトロヤ城内へ引き入れられた際にも、彼女はその不吉な結果を予言したが、人々は聞き入れなかった。そして落城の際には助けを求めてアテネ女神像にすがったが、引きはがされて小アイアスに陵辱(りょうじょく)される。最後は敵将アガメムノンの側妻(そばめ)となって、2人の息子テレダモスとペロプスを生むが、ギリシアへ渡ったのちは、アガメムノンおよび息子たちともどもクリタイムネストラとアイギストスによって殺された。

(コトバンクのニッポニカより)
カッサンドラとは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

(訳注5)英語版wikiのsalva veritateの項目の英訳を参考にした。
(訳注6)唯一の対象として数ゼロを包含しているので、この概念の基数は1である。多分割り当てられた数=le  nombre assignéが基数だと思っておけばよさそう。
(訳注7)これはラカンの論考「科学と真理」を指しているが、これはエクリに収録されている。

コメント

(コメント1)反復を表象=再現前化の下で捉えればそれは同一性に回収されるであろうが、しかし[永劫回帰の相の下で捉えれば?]差異化の過程と看做すことができよう
差異と反復のいろんなところに書いてあるような気がする。例えば、下p.265~270?
そもそも事物は同じものはない=同じものの反復など不可能。むしろそのたびごとに現れる新たな事物=反復を差異化の過程と捉える?

最後に

例のごとく意味の分からない怪文書が生成されましたが、現在『縫合』についての軽い解説を書く気でいます。完成時期は未定です。

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