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すべての自分磨きをやめた話。

久しぶりにnoteを書いてみる。

実は2020年どういう1年にしようかと正月に考えたとき、1つだけ決めたことがあった。それは「今年1年は将来の為の自己投資を全てやめてみよう」というもの。

いままでは時間があれば仕事のインプットの時間にほとんど充てていたのだが、「これってなんでやってるんだっけ?」という疑問がふと湧いてきた。もちろん、より良いアウトプットをできるようにしてお客様に喜んでもらう→自分の価値を高める→より収入的に安定させて家族を守る。みたいな理由がすぐ見つかるし、実際あるのだけれども、なんとなく釈然としないというかモヤモヤするというか・・。そんな違和感。

やりたくてやってるというか、「成長しつづけなければいけない」とずっとそれが正義のように言われつづけた結果、ある種の脅迫観念でやってるような感じになってしまっていた。根っからのナマケモノの私はそれに少し疲れたのだと思う。そして考える。。

「本当に成長しつづけなければいけないのか?」



ふと昔の事を思い出した。
昔から理不尽なことややりたくないことをやるということに反発が強い、わがままな性格だった。

幼稚園の時、親がひらがなを覚えさせようとするのを「小学校にいけばどうせやることをなぜ今やる必要があるのか』と全力で拒否した。

たしか中学1の時、みんなが将来は高校に進学するというのを聞いて驚いたのを思いした。「勉強やりたくね〜」「塾いきたくね〜」友人達は確かにそう言っていたのに、嫌いな勉強を義務教育後も続けに行くというのがシンプルに意味がわからないと思っていた。

子供の自分の方がよっぽど自分にまっすぐに物事を見れていたと思う。
(無知ってすごい・・)

「今の自分は流されているだけかもしれない。」そう思った私は、2020年新年早々に思い切って自己成長の目標をすべて捨て、それを確かめてみようと決めたのだった。

やめたこと

・今年の目標設定自体をやめた
・ほぼ毎日やっていた1日の振り返り日記をやめた。
・自己啓発書の類やビジネス書を読むのをやめた。
・仕事をプライベートの予定より優先するのをやめた。

仕事への意識が高い方々、見たら「そんなのただの甘え」、「コイツ終わったな」と言われかねない体たらくぶりである。

しかし、「ただ生活を送る」こと=「甘え」と感じることがそもそもヤバイ気がしたのだ。

そして自己投資をやめて空いた時間で興味の赴くままに過ごした。


・昔のよく遊んでいた友達が登山を始めたというので一緒に登山を始めた。
・流行りのソロキャンにハマった。道具やキャンプ場についてしらべたり道具をDIYする。
・義母に使わない革をたくさん頂いたのでレザークラフトをして遊ぶ
・登山を始めたおかげで長年挫折していた禁煙に成功!
・登山の為の体づくりで運動が習慣化できた。
・子供と遊ぶ時間を増やした。

好きなことしかやってないので当然なんですが、
これがまぁ、楽しい(笑)


まとめ

面白いのはこんな生活を送っていてもちゃんと「成長」も「幸せ」も感じれたこと。

・レザークラフトを通して、ちょっとした小物や縫い物ができるようになった。
・キャンプや登山を通じて災害や緊急時のサバイバル術を学べた。
・普段の仕事で必要にせまられワードプレスを使った簡単なサイトくらいなら作れるようになった。
・子供が日々楽しそうに生活している
・友達と遊ぶ時間が増えた
・3kgほど痩せた
・ニコチン依存症から脱却

「成長」を仕事という狭い視野に向けなければ、人は見えていないだけで小さな「できる」のつみ重ねは日々起こっていてただなんの目標も持たず生活を送るだけでも様々な気づきや学びがあって楽しめるんだということ。「未来」ではなく「今」に意識が向きやすくなること。そして自分の両親も含め、そういう生き方で幸せに暮している人の人生や生き方も素晴らしいなと思えるようになった。(以前は「何も考えてない人たち」と少し下に見てる節があった、、)
生きることを大変だったり、難しくしたり、貴賎をつけてるのは自分自身の捉え方だけなのかも。

そして私の「本当に成長しつづけなければならないのか?」に対する答えは今のところ「No」である。これはただの自己正当化で逃げなのかもしれない。でも今はそれでいい。ただ成長を縦軸だとすれば、横軸で、「変わらない大切」のために変わり続ける必要はあるのかなとはコロナ渦で感じたこと。

さて、来年はどんな1年にしようかな。

デザイナー(グラフィックがメイン)。埼玉の自宅にて在宅ワーク中。釣りとスケートが好き。 デザインのことや、自分が大切にしたいことなどをまとめてます。 子供が出来てから、日々の時間の使い方や働きかたを日々模索中。