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04 稽古と型について

みなさん、こんにちはコバチバです。

今日はいきなりですが、稽古と型について教育的視点で自分なりに書いてみたいと思います。

理由は日本教育史の本を読んでこの分野がただ面白いと思ったからです (笑)

もし興味あれば読んでください。

結論として言いたいことは稽古は先人の教えを通して人生観を養うことに意義があるという事です。型は稽古を通した創造的発展です

稽古とは何か

まず稽古とは何か...普段私たちはピアノや剣道などの習い事などでこの言葉を何気なく使用しますが一般的には練習の意味合いで使用します。

しかし本来の稽古の意味は古(いにしえ)を稽(かんがえる)が由来です。

とは遺されたもの、故人の業績、故人の成就、古人の到達した価値高いものです。の考え方は比較して考えるの意味です。

つまり稽古とは価値高き古なるものと、自己の現実とを比較検討して自己の未完成を悟ること

そして次の段階として自己の未完成、欠点を知れば知るほど、価値高き古に近づくべく修練に励みます。

古を前にすれば謙虚となり、心を開けて修行に心身を打ち込んでいきます。それは単なる練習や鍛錬と内面的に異なり、稽古には模範、手本、亀鑑、師匠、師範など古なる先達があり、それを前に心を開けて受け入れていく謙虚さがあります。

そのため武道、華道、茶道などのいわゆる「道」には流派があり、始祖、師範がおり先人の教えを哲学に「道」の高みを目指し、ただの技術だけでなく人生観などにも触れた崇高さが「道」には存在します。

ただの習い事ではなく人生観が「道」には存在します。

柳生新陰流の例

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具体的に例として剣道の流派「柳生新陰流」をここで挙げてみます。(ここの柳生新陰流の例は分かりにくいので飛ばすことを推奨します)

柳生新陰流の教えは「天地人転」であり、「性自然」、「転」、「真実の人」の3つを示しています。

まず1つ目の「性自然」とは自然の活きに従うことで、私心なく身体全体でのびのびと刀を使うことであり、性の自然に循(したが)えば、物事に適切に対応できるというもの

2つ目の「転」は流祖の遺した『燕飛の巻』に記載されている「懸・待・表・裏は一隅を守らず、敵に随って転変して、一重の手段を施すこと、恰も風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し」のこと。これはどの方法にも固執せずにその状況に応じて柔軟に最適な手段を用いるという考え方を意味しています。「転」を使うには、心身ともに先入観を持たない「無形の位」を本体とし、千変万化する相手を明らかに観て、力尽くで敵を倒す「殺人刀」ではなく敵を働かせその働きに随って無理なく勝つという「活人剣」を意味しています。(すごい簡単に言うと「るろうに剣心です」 笑)

3つ目「真実の人」は、流祖が石舟斎に授けた一国一人印可状の言葉が由来である。「其の上の儀は真実之人に寄るべき候」と書かれている、これは斬合いの極意は「真実の人」にのみ伝えることができることを示しています。

改めて読み解くと柳生新陰流の「天地人転」は自然体で真実さをもって物事に臨機応変に対処していくことを極意としている。これは剣術だけではなく私たちの人生の哲学としても当てはめることができ、心身一如と言われるように結局その人自身の性格や考えが剣の動きに反映されるのであり、剣を通しての自己の欠点の修正及び教えを自己に反映させることは単なる剣術だけでなく、人格の形成へとつながります。


型について

次に「型」とは何か

稽古によって磨きぬいた始祖、心授伝授、長年引き続いた伝統的生命を稽古によって、自らの身に体するという心身一如の教育のことを言います

したがって先人、各人、達人たちの苦心の結晶というべき「型」が、稽古をした身に現れてくる。その型は型にはめ込むことに他ならないが、長年洗練を重ねた苦心の構成物であるから、いわば贅肉は取られ、虚飾はなくなり洗練された自己となります。

型は身構えが先であり、心身は後から養われる学び方である為、自分の考え、心が教えと合致するまでは相当な労苦がある。

しかし先人が長い歳月を経て模索し、獲得した奥義の答えをはじめから知って個人は稽古するのだから時間的にも個人の成長は早く「型」の完成も早まる。完成された「型」は自らなる創造力によって型を超えていきます。

実際に上述した「柳生新陰流」は新陰流を会得した柳生宗厳より伝えられたのであり、決して新陰流を否定するものでは無く、新陰流を土台としてさらに別の視点で洗練された流派です。

「型」を会得して更なる「型」を創っていくことは、時代、状況、問題が変わっていく事に世の中に対応していくために必要です。


守・破・離

この「型」から新しく創っていく流れを中世の時代より「守破離」と呼ぶ。これは茶道の侘茶を大成させた千利休の教え「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」を引用したものと言われています。

稽古を通して型を「守る」ところから修行が始まります。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができるというもの。

この守破離を繰り返しながら能、華道、書道など日本の伝統的武道・芸術は発展を続け、今にいたると私は考えます。


まとめ

教育観点で「型」について考えると、教育基本法では「人格の完成」を到達目標とします。

この「人格の完成」は先人、偉人、古人、師範から学ぶことでしか成しえないものであり、私たちは先人という自分の師から生き方や思想から「型」を学び自分に当てはめながら稽古を積み重ね、守破離を経て人格の完成へ近づけることができるのではないでしょうか。

現代では数多くいる先人、師の中で1つに限定する必要はないが、自分に合う「型」を見つけ、捉え、稽古を重ねることが、とても重要ではないでしょうか。


最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

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