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内面の吐露(要するに自分語り)

はじめに

最近のnoteではずっと自分の経験を切り取った記事しか書いていないので、たまには自分語りをします。この前Twitterのフォロワーさんの記事を読んだのですが、SNSではなく筆者と読者が対面する系のnoteのようなサイトでは、自身の内面を吐露することも需要があるそうですね。気付けばnoteのフォロワー数もそこそこ増えてきましたので、自己紹介???も兼ねて書きます。

なお!大半の過去記事のようなライフハック━大したことないが━の共有とか特にありませんので、その辺を目的の方は残念ながらブラウザバック(死語)をお願い致します。主に「Twitterで書くほどでも無いし文字数的に連投になるしな〜。じゃあnoteで書きますか」という内容のぶつ切りです。

本編

■マッチングアプリ

これが現在の出会いの一般常識ヅラとなっていて俺は狂う。世間の常識になっているのは理解してるが、俺は「インターネットに顔を出したら一生フリー素材にされてインターネットの玩具(おもちゃ)にされるぞ」と言われて育った世代なので。
確かに15年前ならこの言説は説得力もあるのだが、今は違うだろう。みんな…というか俺の下の世代は抵抗なくyoutubeやTikTokに顔出しで動画を投稿・配信している。数百万の顔面が日々インターネットに流出している。
知ってる。「そんな現状で誰がお前の顔にわざわざ関心を示すと思ってんの?逆にお前は現在のインターネットに溢れかえる顔面の海で不特定多数に発見されると思ってんの?心配しすぎだろバーーーカ笑」ってやつ。頭では理解しているが感情が拒否している。こうやって俺は現実世界でもインターネットからも取り残されるんだろうな。ちなみに父親に「そんなに結婚いうなら誰か紹介して」と言ったら「お前のせいで俺にクレーム来たら嫌だから断る^^」と言われました。

■交際

大学生時代に彼女はいたのだが(6年前で時効なので書きました。彼女の単語に反応しないでください)既卒無職を経て2017年〜の社会人生活で、この5年間特定の異性と双方の合意で特別な関係になったことはない。イコール彼女いませんです。交際ってなんなんだ。お互い相手に溺れる魔法か?じゃあ魔法が解けた後に残るのはなんですか。「自分のことに異様に詳しい他人」の誕生では?別れた瞬間に「俺(児玉)の個人情報を大量に抱えている私人」となる。怖すぎるだろ。アメリカで大統領選挙のたびに「実は私は○○候補と昔付き合っていて〜その時にレ○プされて〜」みたいな告発があるわけだが、将来的にそういうリスクもある。(俺は将来の夢に内閣総理大臣とアメリカ合衆国大統領もあるので、こういった懸念もしています。)
こと俺みたいな小学生の頃からインターネットにどっぷり侵された人間は、SNSの俺と、現実世界の俺と、他者から見た俺、この三つのイデアが三つで一つの三位一体となっている(西暦352年の第一ニカイア公会議より)これらを上手く調整できたとしても、個人情報までは器用に分別できない。インターネットでの出会いは時にリスキーだ。
けどさ〜〜〜自分の内面を晒すのにインターネットは不可欠なわけ。俺自身の性格はカスなのは自覚しております。億が一、誰かと交際したとしてその後にTwitterのアカウント見つかって「え…お前キモいな」となれば終わる。詰んでるだろこれ。性格カス同士の人格のマッチはありませんか?メンタル面でご迷惑はお掛けしません。あと待ち合わせ時間に遅刻するとか、金貸してとか地味に溜まるイライラポイントもないです。こういうの自分から言うところに問題があるんだろうね。

■読書サークルについて

インターネットの出会いは怖い!じゃあ社会人サークルに行くぞ!としよう。改めていうまでもないが俺は読書が趣味なので、たまに「読書サークルかぁ〜」と気になって調べることがある。一応調べるが、集合写真が「本で顔面を隠した人間の集まり」の段階で「やめとこ」となる。これは例の如く完全に俺が病気なだけなのだが、ああいう一体感がすごく苦手というか、正直にいうと唾棄している。けど集団行動が苦手なん?といえば違うんですよね。大学のサークルでは20人程度の規模ですが会長もしていたし、むしろ俺はデカイ声出して集団を仕切るの大好きです。
これはなんでだろう?と自己分析を繰り返した結果、わかりました。「俺以外の指示で俺以外の複数人の人間が同じ行動を取っているのを見るのが無理」なのだ。それに読書というバフがマイナスに作用してデバフになる。なぜなら俺は読書については一家言を持って(いると思い込んで)いるため━これは後述します━…病気だろこれ。けどそうなのだ。もちろん!こういう社会人サークルなどの集まり限定です。当たり前ですが北朝鮮の軍事パレードを見て「アイツら…俺の指示なしに」と思ったりはしない。

■ぼくは/わたしは一年間に○○○冊読みました!

中身がない奴が数字を誇る。読んだ本の冊数なんて関係ない。読書サークルの代表とかnoteでインフルエンサー気取ってる奴らは「年間読書数○○○冊!」とか勲章みたいに書いているが、そんなものに価値はない。どういう本を読んだのか?判別もできない(俺はTwitterの固定ツイートに去年読んだ本を羅列した記事を載せています)。あと単純に「読んだ本の数は100冊です!」だけで読書の大家を気取るのは無理があると思うよ。
繰り返しで恐縮だが、そもそも読書というのは冊数を誇るべきものではない。じゃあ難解な本をどれだけ読んだのか?も違う。みんな自由に読みたい本を読めばいい。読んだ本の数と難解さの度合いをアピールしているのを見ると、俺の顔面は梅干しを食べた時みたいな顔になってしまう。レスバは時間の無駄なのでしない。
あと、そんなに読んだ本の冊数を誇るならもう論文も読めよと思う(ちなみに!読んだ冊数だけで誇る人たちは論文について言及は少ない印象がある。もちろん特定分野の最新情報を学会で漁ってもしてなくて〜(割愛))。難解な本を読んだ冊数が多いのが偉いと思うのなら、もう飛躍して未解読文字で記載された文章の解読に励めばいいだろとも思う。解読すれば一躍、第一人者である。契丹文字とか面白いよバチバチに研究者が喧嘩しているので。

■『よふかしのうた』おもしれぇ〜

キッショいオタク部(部長は俺)の皆さん、お待たせしました!今季アニメにも触れます。今季アニメの中では『よふかしのうた』が好きだ。原作者のコトヤマ先生の『だがしかし』が大好きだった延長線上もあるが。特に俺は主人公とヒロインの関係性が(5話現在では)すごく好き。超ウルトラに割愛して説明すると、深夜にぶらぶらしている主人公が同じく深夜徘徊しているヒロインに血を吸われる行為(=性行為のメタファーと受け取っていただいて差し支えがない)を日々行なっている。主人公はそれに特別感を覚えるのだがヒロイン側は意識していない。しかし、今度は主人公側に女性陣が参戦し始めて吸血鬼側がモヤモヤしだす。
これに男女の友情の脆さが表れていると俺は受け止めている。古代エジプトからのテーマに「男女間の友情は成立するか」がありますが(知らんけど)、これの答えは当人らの関係の先の人間関係にあるのではないだろうか。お互いには友達関係と思っていても、片方の恋人が「その男(女)誰?」となったらおしまいだ。特に友達関係のコミュニケーションのレール上でセックスもあれば。恋人がそんな関係を許すわけはない(一部除く)。男女の痴情の縺(もつ)れは舐めていると寝起きに喉元にナイフを突き刺されますよ。
それはともかく、複数の異性と友達関係を築けば関係先が多いほどひずみが起きるし、その辺一切気にしない人らの集まりも別の意味で危ない。難しい。そういうのを思いながら『よふかしのうた』を視聴している。

おわりに

こういう日記?エッセイ?の類は「何を書いた」かより「誰が書いた」が重要らしいですね。僕の疎い文章を最後まで読んで頂いた方には感謝しかありません。凄く嬉しいです。これからも末長く、僕を珍獣観察の感覚で見守って頂けないでしょうか。

本文中、一部で強い言葉を記載してしまいましたが特定の個人や団体を攻撃する意図はございません。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

以上

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