見出し画像

向き合う痛みと過去と。

突然だがおそらく私は病気だ。出来れば信じたく無い。だから診察はしない。それは間違えかも知れない。
賛否両論踏まえこの文を書く。私は大人になってから様子がおかしいなと思う節ができた。
踏切を見ると飛びたくなったり、精神病んでる人をすぐ見て分かったり。人と関わるのが好きだったのに成る可く話さない様にしよう。など。悲観的になってる部分がある。
例えばSNSの連絡手段で知人にメッセージを送ったりする。それに対してなかなか返信がなかったりする。頭では相手は忙しいから〜とか、人に興味がないから〜とか、分かっていても、失礼をしてしまったのではないか。傷つけていないか?
など、深く物事を考えては疲れ果てて寝る。そんな日々である。
ではどうしてそうなってしまったのか、考えてみた。
それは思い出したくもない記憶で傷つけられたからだ。
その人は屹度、嫉妬などで子供な様に言葉を発しただけかも知れないがあたしにとっては凄く辛い発言だった。個性を罵倒したり、コミュニケーションを取れなくする様な罠の様なじっくりと私の内側を変えられていった。
でも、私は頑固な方ではあるので絶対許さないと。変わらない様に生きていったが心はそう簡単ではない。
ダメージというのは戻らない紙のように。戻らない枯葉のように。私を蝕んでいった。
ではどうしたら、人と話す時にちゃんと目を見れるのか、無駄な心情を悟らずに対応できるのか、手が震えないように出来るのか、誤解をしないように自分をコントロールできるのか、自分を甘やかせるのか。
これはまた私の試練であり、私の訓練なのかも知れない。

いつか自分の痛みや苦しみを『小さな出来事』ではなく、『乗り越えなければいけない試練』と考えて向き合ってくれる人に出会ってみたい。

他人に頼るような言い方になってしまったが、たまには頼りたいし、子供のように甘えたい。だが私の中に混在する危機感がそうさせてくれないのだ。
いつか人に素直に優しさを振り撒ける人間になれるだろうか。鬼のようなまゝ死なずに済むだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?