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言葉


この世界は 思うより 生きづらい
ただこの今と言う時代に
特別  必要ともされずに  生産され
誰のためでもなく 
また 自分のためでもない
課されたノルマをただただ 全うして
人生の時間稼ぎをしてるみたい
なんだか滑稽すぎて 笑えない


社会って  そこに馴染むため
省かれないため  他者に嫌われないため
無難にその場面に相応しい
社交辞令って言う 相槌を打って
笑っている事が 正しいみたいな
くだらない風潮があるけれど



私が生きている空間には
そういう  めんどくさい事はなくって
白か黒かで  美しく  分別されている
馴染めなくても 別に良くって
省かれても 少し凹むくらいで
他者に好かれなくても 全然構わない
少しだけの  片手で数えられるくらいの
理解者が居てくれれば
不服はない


上辺だけで その場を凌いだって
結局  その時が和むだけで
後になれば  単なるかりそめと言う
言葉にしてみただけの 嘘に変わる


言葉って  口にすると 言霊となる
ただの  場繋ぎの 愛想だったにせよ
受け取る人が  どう捉えるかを
念頭において
聞き手に伝える事
責任を持つ事が
とても大切なんじゃないかと
幼い頃から 思い続けてきた


そんな  見た目とは裏腹に
生真面目な私が  存在し
どこの誰かもわからない  その誰かに
真に受ける  馬鹿なやつだと
笑われているんだと思う


人に媚びて  人の気を引いて
人に認められて 人に生かされてきた
自分ってものを 半分も見せずに
うそぶいて生きていた時代も
確かにあったのだけれど
そんな時にも  それが正しい生き方だと
思った事なんて  一度もなかった


何に関しても  便利な世の中だけど
叶えられない約束は
時として  とても  人を傷付けて
心に傷を負わせるんだって
少しだけでも  知って欲しい


シャレのわからない  くだらない人間
そう罵られるかもしれない
低能な人間だって 
笑われるのかもしれない 
それを理解できていない訳でもない


誰にでも  満遍なく 幸せを配って
自分を好きになってもらって
幸福度を上げる事を
モチベにして生きるのが 
今の時代のジェネラリティー
なんだとしたら それも
受け入れていかなくちゃ
いけないのかな?なんて 立ち止まってる


会ったことのない人の  口約束
真に受ける事が  本当にいけない事?
誰にでも 優しいのって
単に  嫌われるのが怖いだけでしょ



叶えられない約束ならば
人を選んで  言葉にしてほしい
馬鹿になりきれない 人だって
この世の中には  存在する
あとどのくらい  夢を描けるか
それすら  わからないのに
ただ  無駄に信じて  口約束を
信じて  繋がれてる 鳥籠の鳥みたいに



鳥籠の鳥も  必ずいつか飛び立つ
その時  出来ることなら
笑っていたい
出会いって  どんな形であれ
一期一会だって 信じていたいから


真面目すぎて  疑惑に押しつぶされそう
壊れてしまいそうだけど
支えてくれる人は  誰もいなくって 
自分を鼓舞するかのように
自分の頬をつねる  泣かないように


物語りって  ひとりでは始められない
まだ  スタートラインにすら
立っていなくて ひとり先走ってた
別に特別な人になりたいだなんて
思ってもいなかっのに


答えられない  言葉には
返事すら返さない  キミの真意
さようならだって
履き違えられても  致し方ないよ


時が戻せるのならば  
楽しかった日々に戻りたい
もう  無理なのかもしれないけれど
生まれ変われるのならば
あなたが必要とする人に なりたい


伝えられなかった ありがとうが
日を重ねる事に膨らんでゆく
たくさんの  学びがあったのに
既読がついたままの 
私からのメッセージが
悲しそうに  動かず止まっている


叶えられなかった  約束も
描いていた  楽しげなストーリーも
全てが  色で装飾された   
『上辺だけのお話』で
少しでも 信じていたい 私だけが  
単に無理解だったんだねって 
どうにかして  心の中だけで
終止符を打とうとしている


この気持ち  季節のせいにだなんて
したくもなくて
弱くても脆い  人には見せない顔で
一生懸命に  誰にも悟られないように
同じ空の下で  生き続けています


いつか  時間だけが  風化してくれる
その言葉だけを  胸に








おはようございます。


恋愛観なのかな?自分の生真面目な部分に焦点をあてて書いてみました。
皆さんは『社交辞令』と『おべんちゃら』って見分けがつきますか?


この人、適当に言ってるなって話でも『本当に?』『嘘なんでしょ?』って詰め寄っても『嘘じゃなく真意だよ』って返す人いるじゃないですか?
別に、好きだ嫌いだの話でもなくて、必ずそっちに行くから一緒に観光しようだとかのコーディネーター、プランナーお願いしますの話ですよ。


私の解釈の問題?
・・・それだけなのだろうかとも考えたのですが、社交辞令とみんなに良く思われていたい八方美人とは全くの別物なんですよね。


前者の社交辞令の場合、関西で言う『行けたらいこな』の捉え方で間違いないんですよ。実際の行きましょうね!ではなく、その場を暗くしない為の相槌って感じでしょう。そもそも、行く気!などはなくてもそれを言われて誰一人嫌な気にはならない常套句です。言われた相手もそれを真に受ける人は少ないと思われます。


しかしながら、後者の『八方美人』は言葉の通り四方八方に『遊びにいこうな』『いいね、楽しそう』等と、相手と「個人的な約束事」を交わしてしまうわけで、言われた相手が「え?」って思っても仕方ないように思います。根底にはみんなに良いように思われたくて嫌われたくない自己顕示欲の強い人がこのタイプに感じます。


私には空気が読めない、人の話の裏が読めない、全てを真に受けてしまう障害的な物はなく『行こうね』って言っていたニュアンスに軽さはあったものの、真意だと思っていました。抽象的でもなく具体的であったので。


*ちなみに、我が家は自分以外が自閉症グレーゾーンの、カサンドラ症候群で生きづらさを抱えています。
それゆえの、上辺と真意の違いは理解しながら生きています。
大人の発達障害を家族に持つと、言葉の凶器が嫌でも飛んできますので大変です。それは悪意無き、オブラートに包めない真意のみなので尚更苦しいですね。


話は少し飛びましたが。。。



これも皆、HSP気質だからなのでしょうか?本能的な物なのでしょうか?
もやもやは残るけれど、整理しようと頑張っている所です。
いくら考えても、社交辞令と八方美人をイコールだとは思えない。



作詞として遺しておけば、後には財産、思い出になるのかな?と解釈し、素直に作品にしてみました。



つまんないな、人間笑



では、素晴らしき『文化の日』をお過ごしください。
芸術の秋に相応しく、執筆を。
それでは、また。










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