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第12章 ふたつのフィクション──青森県立美術館 立石遼太郎

時間が何か奇妙な物に思える時。ここには隠された物、外から見ることはできるがその中をのぞきこむことのできないものがある、という考えに何にもまして強く誘われる。しかし、そんなものがあるわけではない。我々が知りたいのは時間についての新事実なのではない。[そして]我々の問題となる事実は全部あけっぴろげに[目の前に]あるのだ。我々を煙に巻くのは名詞[時間]の神秘的な使われ方なのである。
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン『青色本』大森荘厳訳、筑摩書房、2010
*太字は原著で傍点

0 女は女である

ジャン=リュック・ゴダールによる初のカラー長編映画『Une femme est une femme』(邦題『女は女である』、1961)。ストーリーは他のゴダール作品同様、あってないようなもの、いかにもヌーヴェルヴァーグだ。映画的な評価について考えることは他に譲るが、そのタイトルには一考の価値がある。
Une femme est une femme、女は女である。XはXである、という構造のこの一文は、一般的にトートロジーと呼ばれる。あるいは、同意反復、同語反復と呼ばれる修辞技法でもある。なぜ、『Une femme est une femme』はUne femme est une femmeでなければならなかったのか。映像表現やあらすじがトートロジーの構造をとっているわけではない。あるいは、あらゆるタイプの女性を登場させて、その類型を映像で示しているわけでもない。この謎を解く手がかりは、映画のラストシーンにあった。
『Une femme est une femme』は、ジャン=クロード・ブリアリ演じるパリ在住の書店員の青年エミールと、アンナ・カリーナ演じるストリップダンサー、アンジェラという2人の登場人物の物語だ。ラストシーンで、エミールはアンジェラに対し、「君はアンファム(infâme 恥知らず)だ」といい、これを受けてアンジェラが「アン・ファム(un femme)じゃなくて、ユヌ・ファム(une femme 女)よ」と返す。アンジェラはコペンハーゲンからパリへ来たばかりという設定で、パリ在住のエミールよりもフランス語は不得手だが、その分、文法には敏感であると推察される。アンジェラは恥知らずという意味のフランス語「infâme」を、同音異義語「un femme」と聞き間違え、エミールの不定冠詞が間違っていると指摘し、「une femme」といい返す(「un」は男性名詞につく不定冠詞で、女性名詞につく不定冠詞は正しくは「une」)。
一連のシーンは、聞き間違えをした挙句、フランス人にフランス語の文法的な誤りを指摘するということ自体が「infâme(恥知らず)」であるというエスプリの効いたおもしろさがあるのだが(日本語で考えればただの駄洒落でもある)、ここに『Une femme est une femme』というタイトルを隣に置いてみると、ゴダールがトートロジーを用いた意味も自ずと察せられる。文法規則の違反を許せば、この映画のタイトルは『Un femme est un femme』でも成り立つだろう。
このように、トートロジーはその一文だけ取り出して考えてみれば、ほとんど意味をもたない文であるが、置かれた文脈を合わせて考えると、言外の意味をもつ。例えば、
A:局地戦はほとんど戦争とはいえない。
B:戦争は戦争だ。
というやりとりがあるとしよう。この場合、「B:戦争は戦争だ。」という一文がトートロジーにあたる。戦争は戦争だ、という一文は、それ自体なんの意味ももたないが、「A:局地戦はほとんど戦争とはいえない。」という一文の後に用いれば、「B’:局地戦といえど、戦争であることには変わりがない」という言外の意味をもつことができる。
トートロジーの言外の意味は、トートロジー構文それ自体が同じものであっても、前の文によって意味が変化することがある。例えば、
C:地球規模で考えると、増えすぎた人口を減らすという意味で戦争は有益である。
D:戦争は戦争だ。
というやりとりの場合、「D:戦争は戦争だ。」という一文は、「D’:どのような視点で物事を考えようと、戦争は悪だ。」という意味に変化する。BとDは同じ文であるが、B’とD’では意味が異なる。このように、同じ言葉を繰り返し用いるだけで、様々な言外の意味を伝えることのできるトートロジーは、単純な見かけの裏に豊穣な意味をもつという点において、最も魅力的、かつ謎に満ちた言語表現のひとつであるといえるだろう。

0.1 トートロジー構文の特徴

なぜトートロジーを取り上げるのか、これには後に答えるとして、今後の議論のためにトートロジー構文の特徴について、以下に簡単にまとめておく。

0.1.1 シャーロット・シャピアによる言外の意味の4つの分類

フランスの言語学者であるシャーロット・シャピアは、フランス語におけるトートロジーの言外の意味を以下の4つに大別する。括弧内にトートロジー構文をもつ例文と、その言外の意味を示す。
「賛辞的意味」(女は女である=女性は素晴らしい)、「軽蔑的意味」(男は男である=男性は愚かだ)、「定義の喚起」(法律は法律だ=法律は守らなくてはならない)、「最小定義」(椅子は椅子だ=座れればよい)。
トートロジー構文は、前の文によって上記4つのいずれかの意味をもち、ひとつの意味が選択されれば、他の意味は候補から外れるという性質をもつ。

0.1.2 話題を封じる

トートロジーは話題を封じる機能をもつ。例えば「A:局地戦はほとんど戦争とはいえない。」という一文のあとに、「B:戦争は戦争だ。」というトートロジー構文を用いると、Aはぐうの音も出なくなるか、もう一度「局地戦はほとんど戦争とはいえない。」と繰り返すことしかできなくなる。言語学においてはこの作用をトートロジーによる話題の封じ込めと呼ぶ。

1 青森県立美術館は青森県立美術館である

さて、トートロジーから離れて、第12章の本題に入ろう。予告の通り、最終章、僕らは再び《青森県立美術館》を訪れることになる。第1章において《青森県立美術館》を訪れたわけだから、この連載は《青森県立美術館》に始まって《青森県立美術館》に終わる、というわけだ。つまり、本連載は建築におけるフィクションという考え方を通じて、“青森県立美術館は青森県立美術館である”といっているに過ぎない、一種のトートロジーである。冒頭、トートロジーについて言及したのは、こうした理由による。だが、トートロジーに触れた理由はこれだけではない。《青森県立美術館》は、具象・抽象のレベルを問わず、トートロジーを多様することによって言外の意味を獲得する、「トートロジー建築」であることが、トートロジーに触れた最大の理由だ。なぜそういえるのか、これから詳細を確認していこう。
はたして《青森県立美術館》はどのような言外の意味をもつのか。竣工から15年が経った今も、それがなんであるか、僕らはつかめていない。誰も、二の句が継げない状態に陥っている。一見、《青森県立美術館》は、トートロジーのもつ「話題の封じ込め」の作用によって僕らに二の句を継がせないでいるように見えるかもしれない。だが、後で見るように、この「二の句の継げなさ」は話題の封じ込めの作用のせいではなく、そもそも誰も、言外の意味がわからないことに由来している。この「二の句の継げなさ」は、「建築の修辞学──装飾としてのレトリック」において考察した、「語り口が建築物の美術的側面にしか存在せず、そもそも語るための意味が存在しない」がゆえの語り難さとは根本的に異なる。意味が生まれているにもかかわらず、その意味がつかめない、という蜃気楼のような現象により、《青森県立美術館》に対して僕らの口は噤まされたまま、15年が過ぎた。
噤まされた口を、フィクションという語り口でこじ開けてみる。これが本連載の最終目的である。それ自体は何の意味ももたないトートロジーが、前の一文によっていくつもの意味をもつように、“青森県立美術館は青森県立美術館である”というトートロジー構文は、別のかたちに書き換えられるだろう。そのために土台とアンカーを用意した。すなわち第2章から第11章は、トートロジー構文の「前の文」として機能することとなる。
実のところ、“青森県立美術館は青森県立美術館である”というトートロジー構文の書き換えは、第1章において秘密裏に行われていた。まずはそれを確認したい。

2 《青森県立美術館》は「青森県立美術館」である

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